第8話 直せない靴もあります
洗濯場で働く年配の女性は、マルトと名乗った。
石の床を一日中歩き、濡れた籠を抱えて屈む。そのたびに爪先へ体重がかかり、縫い目が少しずつ裂けてきたのだという。ミレイユは裂け目の周りを指で押し、革がまだ締まっていることを確かめた。爪先を縫い直し、内側に薄い補強を一枚。二十銅貨で、三日後の受け取り。マルトは「ポーラのと同じでいいよ」と言いかけてから、首を振った。
「いや、あたしのはあたしの足だね」
マルトの受注票を書き終えると、ミレイユは札を作り、裂けた靴に結んだ。受け取り棚の端には、パン屋の子どもの小さな靴がまだ待っている。その隣に、大人の靴が一足並んだ。
紹介されて来たからといって、ポーラと同じ直し方が合うわけではない。マルトの爪先とポーラの踵は、同じ屋敷の床を歩いていても、別々の場所で傷んでいた。
若い男がもう一度来たのは、その日の夕方だった。
エクトルと名乗った。屋敷の下男で、石炭と水を運び、庭と厩の間を一日に何十回も往復する。言葉は少なく、包みを開ける手つきも素っ気なかった。
「底だけ、張り替えてもらえれば」
椅子には浅く腰掛け、膝の上で両手を組んでいる。待っている間に考えてきた言葉なのだろう。それ以上の注文は、最初から頭にないようだった。
ミレイユは靴を受け取った。外から見ると、甲の革にはまだ艶がある。よく磨かれている。けれど、底は爪先から踵までまんべんなく薄くなり、踵の革は内側へ倒れていた。
「中を、見せていただいてもいいですか」
エクトルが頷くのを待って、ミレイユは踵の内側に指を入れた。踵を包むはずの芯が、指で押すとそのまま凹んだ。もう一度、そっと押す。内側で、すでに砕けていた芯の欠片が、かさりと動く手応えがあった。
芯が、潰れている。長い年月の汗と雨で革が脆くなり、形を保てなくなっているのだ。表の艶は、持ち主が手入れを怠らなかった証拠だった。けれど、内側で靴を支える部分は、もう残っていない。
ミレイユは、崩れた箇所を切り開いたりはしなかった。指で押した跡と、外から見える踵の傾きを、エクトルにも見える位置で示した。
「底を張り替えることは、できます。三十銅貨ほどで」
エクトルの表情が、わずかに緩んだ。
「でも、底を新しくしても、踵の芯がこの状態では、足を支えられません。重い物を運ぶたびに、踵はまた内側へ倒れます。新しい底も、たぶん一月もしないうちに片側だけ減ります」
「……じゃあ、芯も直してくれ」
「芯を入れ替えるには、踵の周りをほとんどほどいて、作り直すことになります。そうすると、手間も材料も、新しい靴の半分以上かかります」
エクトルは黙った。
ミレイユは、底だけ張り替えて渡すこともできた。三十銅貨。今日の売上にはなる。エクトルも、今は満足して帰るかもしれない。けれど一月後、また片側だけ減った靴を持って、同じ顔でここへ来る。その時に払った三十銅貨は、どこにも残らない。
「ここだけ直せば済む、とは言えません」
ミレイユは言った。
二脚の椅子に向かい合って、ミレイユは紙を一枚取った。
「選べる道を、書き出します」
一つ目。新しい仕事靴を作る。四銀貨から。足に合わせて、重い物を運ぶ仕事に向けた形にできる。
二つ目。この靴の踵まわりと底を作り直す。二銀貨半ほど。甲の革は残せるが、古い革と新しい部分の境目が、また別の弱い場所になるかもしれない。
三つ目。この靴は今のまま履き、無理のない範囲で使う。底の張り替えは、勧めない。
「それから、もし別の靴があれば、そちらも見られます。まだ芯が生きている靴なら、少しの修理で長く履けるかもしれません」
エクトルは紙を見下ろした。四銀貨。二銀貨半。その数字の上で、視線が止まった。
「……今日は、決められない」
「はい。決めなくていいです」
エクトルは靴を包み直した。包みの結び目を固く締めると、紙を置いたまま立ち上がる。
「これ、持って帰らなくていいのか」
「お持ちください。ご自分で考えるための紙です」
エクトルは一瞬迷い、紙を折って上着の内に入れた。会釈をして、鈴を鳴らして出ていく。
戸が閉まったあと、ミレイユはしばらく椅子から立てなかった。
三十銅貨。それを断った。ポーラの紹介で来てくれた人に、直せないと言った。屋敷に戻ったエクトルが、あの店は高いことばかり言う、と話すかもしれない。そうなれば、マルトの次に来るはずだった誰かは来ない。
正しいことを言ったのだと、自分に言い聞かせることはできた。けれど、正しかったかどうかは、まだ誰にも分からなかった。
ミレイユは手帳を開き、売上の頁を見た。今日の欄は、空いたままだった。
それからの数日、同じ屋敷から、一人、二人と靴が届いた。台所番の留め金が緩んだ靴。馬丁の少年の、底に穴の開いた長靴。どれも傷み方が違った。ミレイユは一人ずつ椅子に座ってもらい、どこを歩く靴なのかを最初に聞いた。高いことばかり言う店だという噂は、少なくとも、その人たちの口からは出なかった。受け取り棚の札が、少しずつ増えていく。
週の終わりには、パン屋のおかみが前掛けのまま駆け込んできた。
「待たせたね。あの子、裸足で走り回って、とうとう足の裏に棘を刺したのよ」
十五枚の銅貨を受け取り、ミレイユは手帳の売上の頁に二行目を書いた。その翌日には、マルトの二十銅貨が三行目になった。仕入れの頁には、使った麻糸と補強の革を書き足す。売上の頁の数字が、仕入れの頁の数字を、まだ少しだけ上回っていた。
エクトルがもう一度鈴を鳴らしたのは、最初の相談から五日後の昼だった。
手に提げた包みは、前のものより小さかった。中から出てきたのは、色の褪せた茶色の短靴だった。
「冬に、凍った庭で履いていたやつだ。底が硬くて、春からは履いてなかった」
ミレイユは靴を受け取り、まず踵の内側を指で押した。芯は、押し返してきた。硬く、まだ生きている。底は爪先の一か所だけが擦れて薄く、縫い目が二目ほど切れている。
「これなら、直せます。爪先の底に当て革をして、切れた縫い目を縫い直します。二十五銅貨で、四日後に。底の硬さは、少し揉んで馴染ませておきます」
「頼む」
エクトルは短く言い、受注票の名前の欄に、大きな角ばった字を書いた。それから、ペンを置いたまま、少し間を置いた。
「あの紙、屋敷で見せたら、厩の親方が言ってた」
ミレイユは顔を上げた。
「底だけ替えて、また一月で駄目にした奴がいるって。言ってもらえて、無駄に使わずに済んだ」
それだけ言うと、エクトルは会釈して出ていった。前の靴をどうするのか、新しい靴を作るのか、そういう話はしなかった。
ミレイユは小さな茶色の靴に札を結び、受け取り棚に置いた。前とは違う包みの、前とは違う靴。
売上の頁に書けるのは、四日後の二十五銅貨だけだ。けれど、あの紙を持って帰った人が、もう一度扉を開けてくれた。そのことの方が、ずっと胸に残った。
その日の夕方、店先に花の香りがした。
戸口に立っていたのは、大きな籠を腕に提げた女性だった。籠の中で、切ったばかりの水仙が揺れている。年は、ミレイユより少し上に見えた。
「角のパン屋さんに聞いたの。子どもの靴を、ちゃんと直してくれたって」
女性はリュシーと名乗った。二本先の通りで、花の店をやっているという。
「直してほしいんじゃなくて、一から作ってほしいの。仕事用の靴を」
リュシーは籠を床に置き、店の中を見回した。二脚の椅子、奥へ延びる通路、空きの多い棚。それから、通路を自分で歩きながら話し始めた。四歩目の床が鳴ると、ちらりと足元を見て、気にせず先へ進んだ。朝は市場で花を仕入れ、籠を抱えて店まで運ぶ。店の中では、水桶と花台の間を一日中行き来する。昼からは、注文の花束を抱えて屋敷を回る。
「今の靴、どれを履いても、どこかが合わないのよ。配達の時はいいけど、店の中で水を撒くと滑るし。滑らない靴は、重くて配達で疲れるし」
ミレイユは、すぐに値段を言いそうになった。四銀貨から、と。けれど、口を閉じた。エクトルの紙の数字を思い出す。どんな靴を作るのか決まらないうちに出した数字は、相手を安心させるより、迷わせるだけだ。
「お引き受けできるか、どんな靴がいいか、まず足を測って、お仕事の様子をもっと詳しく伺いたいです。少し時間をいただけますか」
「今日じゃなくて?」
「今日は、籠のお花が待っていますから」
リュシーは籠を見下ろして、笑った。
「五日後の昼なら、店を少し空けられるわ」
「では、その時に。今お履きの靴を、何足かお持ちいただけますか。合わないところを、靴の方に聞きたいので」
リュシーが籠を抱えて出ていったあと、店の中には水仙の香りが残った。
直す靴ではなく、まだどこにもない靴。ミレイユは受注票ではなく白い紙を一枚取り、「リュシー様 相談 五日後の昼」と書いた。その下に、配達、水を撒く床、籠、と三つだけ書き留めて、残りは空けておいた。




