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王都の靴職人は、シンデレラを帰らせたい  作者: 南野遥


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第7話 夕方、足音が戻ってきた

 

 ポーラが店に来たのは、靴を渡してから三日後の夕方だった。

 その間に、パン屋のおかみの靴は仕上がっていた。受け取りの約束の日を二日過ぎても、おかみはまだ来ていない。昨日、パン屋の子が戸口から顔を出して「窯が忙しいから、取りに行くのは週の終わり」と言っていった。小さな靴は、札を付けたまま受け取り棚の端に置いてある。


 鈴が鳴った時、ミレイユは底革を裁っていた。顔を上げると、戸口にポーラが立っていた。

 まず足元を見てしまった。直した靴を履いている。踵は揃っている。紐の付け根の縫い目も、ここから見る限りほつれていない。それでも、前の靴に戻して来たのではないと分かるまで、ミレイユは息を止めていた。それから顔を見た。笑っていた。


「前より、ずっと歩きやすいです」


 ポーラは言った。息が少し上がっている。勤務を終えて、使いの帰りに急いで来たのだろう。夕方の光が、朝とは逆の側から通路に差し込んでいた。


「階段の下りも、前みたいに滑りません。夕方になっても、左だけ遅れることがなくなりました」


 ミレイユは胸の中で、ほっと息をついた。


「でも」


 ポーラが続けた。

 ミレイユは手にしていた革包丁を置き、裁ちかけの革を脇へ寄せた。


「どうぞ、お掛けください。ゆっくり聞かせてください」


 ポーラは椅子に腰を下ろし、紐を解いて、靴を片方ずつ丁寧に脱いだ。脱いだ靴を揃えて床に置き、爪先の向きまで直す。毎晩、屋敷でもそうしているのだろう。


「どこが、気になりますか」


 ポーラは少し迷ってから、左の靴を持ち上げた。


「たいしたことじゃないんです。朝は全然分からなくて」

「たいしたことじゃなくても、教えてください」


 ミレイユは受注票を取った。


「何時頃から、気になりますか」

「お昼を過ぎて……夕方の支度を始める頃です。奥様のお部屋で上履きに替えて、また靴に戻す時に、あれ、と思って」

「どんな動きの時に」

「階段を上る時です。下りる時じゃなくて、上る時。足首をこう、曲げると」


 ポーラは自分の左足首を指で示した。くるぶしの少し下、内側。


「ここに、何かが当たる感じがします。痛いというほどではないんです。でも、一度気になると、ずっと気になって」


 ミレイユは左の靴を手に取り、履き口の内側に指を差し入れた。ポーラが示した位置を、靴の中で探す。

 指先に、硬い縁が触れた。

 紐の付け根の裏に足した、黒い甲革の当て革だった。外から角は落としたが、内側の縁は古い革に沿わせただけで、薄く削いでいない。足首を深く曲げると、その縁が内くるぶしの下を押すのだろう。朝は足がまだ細く、気にならない。夕方、むくんだ足には当たる。

 自分が足した部材だった。


「履き方が悪かったんでしょうか。紐を、締めすぎたのかも」


 ポーラが小さな声で言った。


「いいえ」


 ミレイユは当て革の縁をポーラに見せた。


「ここです。私が裏から足した革の縁です。外側は整えましたが、内側を薄くしきれていませんでした。ポーラさんの履き方ではなく、私の仕事の方です」


 ポーラは目を瞬かせた。それから、少しだけ肩の力を抜いた。


「……言ったら、悪いかと思っていました。直してもらったのに」

「言ってもらえて助かりました。教えてもらえないと、ここで終わったことにしてしまうので」


 ミレイユが受注票に「左・内くるぶし下・当て革の縁・夕方・上り」と書き足していると、ポーラが身を乗り出した。


「それと、右は何ともないです。それから、上履きに替える前より、替えたあとの方が分かります。一度脱ぐと、足が少しふくらむみたいで」


 ミレイユは、その一言も書き加えた。


 当て革の縁を削ぐには、縫い目を一部ほどかなければならない。削いだあと、革を落ち着かせ、縫い直して一晩置く。使いの帰りの短い時間では終わらない。


「今日はお預かりしてもいいですか。急いで返すと、また同じところが当たるかもしれません」

「明日も仕事なんですけど……」


 そう言ってから、ポーラは買い物袋の底から布巾の包みを取り出した。


「もし合わなくなったら、すぐ替えられるようにと思って」


 中には、前の小さな靴が入っていた。


「その靴で、明日は大丈夫ですか」

「一日なら」

「では、明日の夕方に取りに来ていただけますか。通路と裏の段で確かめてから、もう一度お屋敷で一日履いてもらいましょう。お代は、そのあとで」


 ポーラは頷いた。


「追加のお代は、いりません」


 ミレイユは先に言った。


「最初にお約束した、踵と紐の付け根の修理の中です。確認も含めて三十銅貨です」


 ポーラが帰ったあと、ミレイユは灯りを点け、左の靴の紐の付け根の糸を、内側から数目ほどいた。当て革の縁を革包丁で斜めに削ぎ、指でなぞって、古い革との境目が分からなくなるまで薄くする。木べらで縁を寝かせ、半目ずらした元の穴へ、もう一度糸を通した。


 同じ靴を、二度ほどいて、二度縫った。受注票の裏は、書き込みでいっぱいになっていた。最初の相談、仮合わせ、裏の段、今日の聞き取り、今夜の手直し。そのどれにも、時間の欄はなかった。

 ミレイユはそれを見ても、何かを足そうとは思わなかった。直すべきところが分かったことの方が、ずっと嬉しかった。


 翌日の夕方、ポーラは約束どおりに来た。

 直した靴を履き、通路を往復する。裏の段を、上って、下りる。上る時に足首を深く曲げてもらい、ミレイユは息を詰めて待った。


「……分かりません」


 ポーラが言った。


「当たっていたところ、分からないです」

「でも、ここは店の段一つです。お屋敷で、夕方まで履いてみてください」


 ポーラは頷き、履いてきた小さな靴をまた布巾に包んで帰っていった。

 その次の夕方、鈴が鳴った。戸口に立ったポーラは、昨日より少し遅い時間に、少し急いだ足取りで入ってきた。


「今日、一日履きました。朝から、夕方の支度まで。上履きに替えて、また履いて、籠を持って半地下の階段を上って」


 ポーラは椅子に座る前に、そう言った。


「……廊下の最後まで、歩き方を気にせずに行けました」


 ポーラは少し笑った。


「足が疲れなくなったわけじゃないです。夜には、やっぱりくたくたです。でも、夕方にゆっくり下りなくてよくなりました。それだけで、ずいぶん違います」


 それだけで。その言葉を、ミレイユは胸の中で繰り返した。靴は、ポーラの仕事を軽くしたわけではない。一日の長さも、階段の数も変わらない。変わったのは、その階段を、自分の歩き方で上り下りできるようになったことだけだ。


「踵と紐の付け根は、これでしばらく持つと思います。踵は、半年ほどしたらまた減り具合を見せてください。中底は、前にお話ししたとおり、今回は触っていません。夕方の滑りがまた気になったら、その時にご相談ください」

「はい」


 ポーラは小さな布袋を取り出し、中の銅貨を卓の上に並べた。十枚ずつ、三つの山。

 三十枚の銅貨は、小さな卓の上でも場所を取らなかった。父の店で一日に扱っていた金額とは、比べものにならない。けれど、これは自分が聞いて、選んで、直して、また聞き直した仕事に払われたお金だった。

 ミレイユは一枚ずつ数え、受注票の最後の欄に「受領 三十銅貨」と書いた。ポーラの名前の横に、日付を添える。


「あの」


 ポーラが言った。


「同じお屋敷に、靴で困っている人がいるんです。ここのことを、話してもいいですか」

「……はい。ぜひ」


 ポーラが帰ったあと、ミレイユは手帳を開いた。売上の頁を新しく作り、一行目に「ポーラ様 三十銅貨」と書く。それから仕入れの頁に戻り、踵二枚分の底革と、化粧革と、当て革と、麻糸を書き出した。二つの数字を、同じ頁には書かなかった。


 翌朝、閂を外したところで、戸口に人影が二つ立っていた。

 一人は、ポーラと同じ紺の服を着た年配の女性。もう一人は、上着の袖をまくった若い男だった。二人とも、手に古い靴を提げている。


「ポーラから聞いてね。ここなら、ちゃんと話を聞いてくれるって」


 年配の女性は、戸口の上の看板を見上げてから言った。ポーラから聞いた名前を、確かめるように。若い男は、黙って会釈した。

 女性の靴は爪先の縫い目が裂け、男の靴は底が薄くなって、踵の革が内側へ倒れている。同じ屋敷の靴でも、すり減り方がまるで違う。きっと、歩く場所が違うのだ。

 ミレイユは一瞬、二人の靴を両方とも今日中に見て、すぐに直すと言いそうになった。言葉を飲み込み、二脚の椅子の一つを引く。


「ありがとうございます。お一人ずつ、お話を伺わせてください。先にお掛けいただいた方から始めて、もうお一人は、お待ちいただくか、今日の夕方にもう一度お越しいただけますか」


 二人は顔を見合わせ、若い男の方が「夕方に来ます」と言って、靴を提げたまま出ていった。

 年配の女性が椅子に座り、靴を膝に載せた。洗濯場の石の床を、一日中歩くのだと言う。ミレイユは受注票を一枚、作業台から取った。受け取り棚の真ん中、ポーラの靴があった場所が空いている。その空いた場所が、昨日までとは違って見えた。

 

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