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王都の靴職人は、シンデレラを帰らせたい  作者: 南野遥


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第6話 新品ではない一足

 

 翌朝、ミレイユは作業台に受注票を広げ、その横にポーラの靴を置いた。

 受注票の余白には、昨日の自分の字が並んでいる。左の踵、外側の摩耗。紐の付け根のほつれ。中底の沈み――範囲外。最後の一行に、ミレイユは指を置いた。直すのは踵と紐の付け根だけ。中底には手をつけない。

 ほどく前に、まず今の形を写した。踵がどの角度ですり減っているか、紙を当てて鉛筆でなぞる。紐の付け根の縫い目が何目あり、どこから糸が浮いているかを数えて書く。一度ほどいてしまえば、元の姿はもう見られない。


 それから、踵の一番下の革に刃を入れた。

 すり減った化粧革を外すと、その上の積み革が現れた。外側だけが斜めに削れて、二枚目まで薄くなっている。外から見た時は、一枚分の摩耗だと思っていた。

 ミレイユは手を止め、受注票を見直した。踵の張り替え。一枚で済むか、二枚になるかまでは書いていない。けれど、どちらも踵の張り替えのうちだ。お代を足す理由にはならない。


 ――二枚、替える。

 紐の付け根の糸を一目ずつ切っていくと、針穴が楕円に伸びているのが見えた。日に十回、革紐を引いて結ぶ。そのたびに、縫い目は同じ方向へ引っ張られてきたのだ。古い糸は、ポーラの一日の形に伸びていた。

 ミレイユは伸びた穴をなぞり、新しく縫う位置を、元の穴から半目ずらすと決めた。同じ穴に糸を通せば、また同じところから裂ける。


 靴の中を覗くと、沈んだ中底の縁が、昨日よりはっきり見えた。ここに薄い革を一枚足せば、夕方の滑りは少し減るかもしれない。手を伸ばしかけて、ミレイユは引っ込めた。中底は、ポーラが次の給金のあとで相談すると決めたところだ。良かれと思って黙って直せば、それは約束を破ることになる。


 踵に積む革を選ぶのに、思ったより時間がかかった。

 開店前に仕入れた底革は、新しくて硬い。切り口を指で押しても、ほとんど沈まない。これをそのまま積めば、踵は高さを取り戻す。けれど、何年も履かれて柔らかくなった甲の革と、新しい硬い踵とのあいだで、歩くたびに力がずれるだろう。新しい部分だけが靴の中で浮いてしまう。

 ミレイユは底革の端切れを二枚並べ、片方を両手で曲げてみた。厚い方は、指の力では曲がりきらない。薄い方は素直にしなるが、二枚目の積み革にするには頼りない。


 ――表を見る前に、裏を見ろ。

 父は革を選ぶ時、いつもそう言って、端切れを裏返した。床面の繊維が締まっているか、ばらけているか。ミレイユは二枚を裏返し、爪の先で床面を撫でた。薄い方の繊維は、思ったより詰まっている。

 靴底に近い方に薄い一枚、地面に近い方に厚い一枚。地面に触れる一番外側には、新しい化粧革を一枚。父がいつもそうしていたかは、覚えていない。父の言葉の通りにすれば、必ず合うわけでもない。けれど、曲げて、裏を見て、押して確かめた分だけ、選んだ理由は手の中に残った。


 積み革を膠で貼り、父の錐で下穴を開けてから木釘を打つ。穂先が革に吸い込まれる感触がした。紐の付け根には、裏から黒い甲革の細い当て革を足し、麻糸で半目ずらして縫い直した。糸を引き締めるたびに、木べらで縫い目を寝かせる。

 縫い終えた付け根を指で引くと、糸は動かなかった。けれど、新しい当て革の縁だけがわずかに角立っている。ミレイユは刃を寝かせて角を落とし、甲の古い革と段差がなくなるまで、何度も指でなぞって確かめた。

 膠が芯まで締まるには、一晩かかる。急いで仕上げれば、最初の階段で踵が鳴る。ミレイユは靴を棚に戻し、札をもう一度結び直した。


 翌日の昼前、鈴が鳴った。

 入ってきたのは、通りの角でパンを焼いている店のおかみだった。前掛けに粉が付いたままで、手には子どもの小さな靴を提げている。


「この子のがね、底がぱっくり口を開けちゃって。直せる?」


 ミレイユは靴を受け取り、爪先の剥がれ目を開いて中を見た。縫い糸が一か所切れ、そこから底が浮いている。革自体は傷んでいない。


「縫い直せば、また履けます。十五銅貨で、明後日の夕方にはお渡しできます。お代は、お渡しの時に」

「明後日ね。それまで裸足で走り回るわ、あの子」


 おかみは笑って帰っていった。

 ミレイユは二枚目の受注票を書き、札を作って小さな靴に結んだ。受け取り棚に、大小二足の靴が並ぶ。一足の店ではなくなった、とミレイユは思った。

 鐘の数を数えるより、革を見る方が確かだった。一晩おいても、朝のうちは膠の縁がまだ少し指に吸い付いた。昼を過ぎると、乾いた音がするようになる。


 ポーラの靴の踵を指で押す。膠はもう動かない。化粧革の縁を削り、磨き棒で仕上げてから、ミレイユは小さな靴の縫い直しに取りかかった。窓の光が傾き、作業台の上で針の影が長くなっていく。

 そして、仮合わせの日の夕方が来た。


 鈴が鳴ったのは、夕の鐘の少し前だった。

 ポーラは腕に布の買い物袋を提げ、少し息を弾ませていた。


「お使いの帰りです。あまり長くはいられないんですけど」

「すぐに済ませます。どうぞ」


 ミレイユは買い物袋を受け取り、作業台の端に置いた。中から、包んだ蝋燭と糸巻きが覗いている。奥様の使いの品だろう。待たせれば、ポーラが叱られる。

 椅子に座ったポーラの足に、直した靴を合わせる。紐を結ぶのは、本人に任せた。毎日、自分で結ぶのは彼女だからだ。

 ポーラは通路を歩いた。一歩、二歩。四歩目で床板が低く鳴る。七歩目で壁の手前に止まり、振り返る。


「……傾かない」


 ポーラは足元を見下ろした。


「前は、左だけ外へ逃げる感じがしたんです。それがありません」


 ミレイユは頷いた。通路ではよさそうだ。けれど、ポーラが毎日歩くのは平らな床だけではない。


「もう一つ、お願いがあります。裏口に、段が一つあるんです」


 作業場の奥の裏口を開けると、裏の路地へ下りる石の段が一つある。膝の高さにも満たない、低い段だ。ミレイユは段の脇に立った。


「手を壁についたままで構いません。ゆっくり、下りて、上ってみてください。急がなくていいです」


 ポーラは壁に指先を添え、段を一度下りた。上る。もう一度、下りる。

 二度目に下りたところで、ポーラは足を止めた。


「下りる時、踵が少しだけ浮きます。靴の中で、踵が持ち上がって……すぐ戻るんですけど。前に滑るのとは、違います。もっと、後ろの方」


 ミレイユはしゃがんで、ポーラの踵を見た。下りる瞬間、履き口と踵のあいだに隙間が開く。平らな通路では見えなかった動きだった。

 自分の仕事が足りなかったのか、と一瞬思った。けれど、ポーラの言葉を打ち消す理由はどこにもない。直した踵が悪いのではなく、足を靴に留めておく力が、下りの段では足りていないのだ。


「歩く場所が変わると、答えも変わりますね」


 ミレイユは言い、作業台から父の錐を取った。


「紐を通す穴を、一つ上に足したいんです。紐が足首の近くで締まれば、踵が靴に留まりやすくなります。穴は一つ増えて、元には戻せません。足してもいいですか。お代は変わりません」


 ポーラは屈んで、今の紐の位置を指で確かめた。それから顔を上げた。


「お願いします」


 靴を脱いでもらい、甲紐の最後の穴の少し上に、印を付けて錐を通す。縁を小さく整え、紐を通し直した。

 ポーラはもう一度段を下りた。今度は、足を止めなかった。


「……さっきより、いいです」


 ポーラは段の上で、片足ずつ踵を確かめるように体重を移した。それから、少しだけ首を傾げた。


「浮くのは減りました。でも、まだ少し、分かります」

「ありがとうございます。そこまで教えてもらえると助かります」


 ミレイユは、それ以上紐を締めさせなかった。締めすぎれば、今度は足首に当たる。この先は、店の段一つでは分からない。


 接客席に戻ると、ポーラは靴を履いたまま、自分の足元をしばらく見ていた。


「このまま、履いて帰っていいんですか。お代は」

「まだ、いただきません」


 ミレイユは受注票を見せた。


「お屋敷で一日働いたあとに、どうだったかを教えてください。お代は、それを確かめてからです」

「でも、どこか気になっても、言っていいのか……」

「言ってください。強く当たる、痛む、そういうことがあったら、我慢して履き続けないでください。前の靴に戻して、ここへ来てください。店の段一つでは、お屋敷の階段のことまでは分かりませんから」


 ポーラは少し考えて、頷いた。


「数日、お仕事で履いてみます。次のお使いの帰りに寄ります」


 履いてきた小さな靴を、ポーラは布巾に包んで買い物袋の底に入れた。

 鈴を鳴らして、ポーラは裏通りへ出ていった。買い物袋を提げた後ろ姿が、角を曲がるまで、ミレイユは戸口に立っていた。石畳に、直したばかりの踵の音が、揃った間隔で遠ざかっていく。


 作業台に戻り、ミレイユはポーラの札を手に取った。完成、と書くつもりだった欄を見て、ペンを止める。

 代わりに、小さく書いた。――試用中。

 札は棚に戻さず、受注票と一緒に作業台の端に置いた。靴はもう店にない。あの靴の一日は、明日の夜明け前から始まる。

 

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