第5話 最初のお客様は、靴を買えない
閂を外し、扉を開け放つと、裏通りの朝の空気が通路を渡って奥の壁まで届いた。
戸口の上には、開店の朝に付けたばかりの小さな真鍮の鈴が下がっている。扉が動けば鳴るはずのそれは、ミレイユが扉を開けた時に一度だけ鳴り、それきり黙った。
ミレイユは椅子の角度を少し直した。直してから、元に戻した。作業台の道具を並べ替え、受注票の束の角を揃える。それでもまだ、朝の鐘からいくらも経っていなかった。
通りを人が行き交う。荷車の車輪の音。水桶を提げた女の足音。看板を見上げて足を緩める人もいた。けれど、看板を読み終えると、また同じ歩幅で通り過ぎていく。一度、年配の男が戸口から中を覗き込んだ。ミレイユが立ち上がりかけると、男は「靴屋か」とだけ呟いて行ってしまった。
兄の店では、開ける前から待っている客がいた。予約の札が並び、接客室には誰かの声が絶えなかった。あれは父の名前と、何十年分の靴が積み上げたものだったのだと、今になって分かる。
ミレイユは余り革の切れ端を取り、膝の上で縫い目の練習を始めた。等間隔に穴を開け、糸を通し、引き締める。手を止めると不安ばかりが大きくなる気がした。
窓から差す光が、作業台の上をゆっくり横切っていく。糸くずが二つ、三つと落ちた。光が台の端に届きかけた頃だった。
鈴が、鳴った。
戸口に立っていたのは、若い女性だった。地味な紺の服に、糊の利いた白い袖口。どこかの屋敷で働いている人だと、ひと目で分かる身なりだった。胸の前で、布の包みを両腕に抱えている。
「いらっしゃいませ」
ミレイユが立ち上がると、彼女は一歩だけ中に入り、そこで止まった。
「あの、先に申し上げておきます」
包みを抱えた腕に力が入る。
「新しい靴を買うお金は、ありません。買い替えは、まだできません」
声は小さかったが、はっきりしていた。何度も心の中で言う練習をしてきたような言い方だった。
ミレイユは椅子の一脚を引いた。
「どうぞ、お掛けください。買うかどうかは、靴の状態とお値段を見てから決めましょう。見るだけでしたら、お代はいただきません」
彼女は椅子とミレイユの顔を見比べ、それから浅く腰を下ろした。膝の上で包みをほどく。指先が一度止まり、また動いた。
出てきたのは、黒い革の短靴だった。踵の外側が斜めにすり減り、甲を留める革紐の付け根がほつれかけている。けれど、甲の革にはひびが一つもなかった。毎晩のように油を引いてきた革だけが持つ、落ち着いた艶がある。
「よく手入れなさっていますね」
ミレイユが言うと、彼女は少し驚いた顔をした。
「……ポーラです。お屋敷で侍女をしています。今日は、月に一度の半日のお休みなんです」
名乗ってから、彼女は靴の甲を指でなぞった。
「これしか、仕事用の靴がないので」
包みを持ってきた布は、屋敷の台所で使う布巾のようだった。ここへ来るまで、誰にも靴を見られたくなかったのかもしれない。ミレイユはそのことには触れず、靴を膝の高さで受け取れるように手を出した。
「お仕事の一日を、教えていただけますか」
ミレイユは受注票を一枚取り、膝の上に置いた。
「朝は、何時頃から立っていらっしゃいますか」
「夜明け前です。台所の火を見て、それから奥様のお部屋の支度をします。座れるのは、お昼の食事の時と、夜に繕い物をする時くらいです」
「階段は、多いですか」
「多いです」
ポーラは即座に答えた。
「台所が半地下にあって、奥様のお部屋は二階です。お盆を持って、一日に何度も上り下りします。洗濯物を抱えて、裏の階段を下りることも」
「荷物を持っている時、足元は見えますか」
ポーラは少し考えた。
「見えません。お盆や籠で隠れるので、段の数を覚えて歩きます」
ミレイユは受注票の余白に書き留めた。半地下と二階。盆と籠。足元が見えない階段。
「お部屋によって、靴を脱いだり履いたりすることは」
「奥様のお部屋の絨毯の上だけ、布の上履きに替えます。日に、十回くらい」
「十回」
ミレイユは繰り返した。そのたびに革紐を解いて、結び直す。紐の付け根がほつれるわけだ。
「どこが合わないと感じますか」
「朝は、平気なんです」
ポーラは膝の上の靴を見下ろした。
「でも、夕方になると、歩き方が変わります。左の踵が先に疲れて……階段を下りる時だけ、足が靴の中で前に滑るような感じがして。だから夕方は、ゆっくり下りるんです。そうすると、仕事が遅いと言われてしまって」
朝と夕方。上りと下り。左と右。ポーラは、その違いを一つずつ分けて話した。自分の足のことを、こんなふうに言葉にできる人は多くない。
ミレイユは、夕方の半地下の階段を思い浮かべた。籠を抱え、段を数えながら、少しずつ慎重になっていく足音を。
「靴を、少し拝見してもいいですか。それから、通路を何歩か歩いていただけると助かります」
ポーラは小さく頷き、包みの布を椅子の背に掛けてから、靴に足を入れた。
ポーラが七歩の通路を歩く。四歩目で床板が低く鳴った。左の踵が、着地のたびにわずかに外へ傾く。履き口と踵のあいだに、指の先が入るほどの隙間ができていた。
ミレイユは靴の内側も確かめた。中底の踵の部分が沈み、縁が硬く浮いている。すり減った踵、ほつれた紐の付け根、沈んだ中底。気づいたことを、ポーラにも見える位置で受注票に書いていった。
作業台の脇に靴を置き、ミレイユは指で一か所ずつ示した。
「甲の革は、まだ十分に使えます。ひびもなく、柔らかさも残っています。ここを残せるのは、ポーラさんが手入れを続けてきたからです」
次に、踵を指した。
「直した方がいいのは、まず踵です。外側だけがすり減って、傾いています。これを張り替えます。それから、紐の付け根の縫い直し。ここが切れると、靴が足から離れやすくなります」
「それで、階段で滑るのも直りますか」
「少しは良くなると思います。ただ、靴の中で足が前に動くのは、中底の沈みも関係しています。中底まで作り直すと、手間も材料も増えます」
ミレイユは料金表をポーラの方へ向けた。
「踵の張り替えと、紐の付け根の縫い直し。この二つで三十銅貨です。中底まで直すと、その倍近くかかります。新しい仕事靴を一足作るなら、四銀貨より下にはなりません」
ポーラは料金表を見つめた。三十銅貨、と小さく口の中で繰り返す。指が、仕事着ではない紺の服の裾を軽く握った。
「中底は、あとから別に直すこともできますか」
「できます。踵と紐を先に直しておけば、中底は別の時に手を入れられます。ただ、それまでは夕方の滑りが少し残るかもしれません。そこは、正直にお伝えしておきます」
ミレイユは少し間を置いて、続けた。
「新しく作れば、足の形に合わせられますし、中底も最初から硬さを選べます。でも、今の靴でできることも、まだあります」
ポーラはしばらく黙っていた。それから顔を上げた。
「三十銅貨の方で、お願いします。……中底は、次にお給金が出たら、また相談させてください」
「分かりました」
ミレイユは受注票の修理内容の欄に、踵の張り替えと紐の付け根の縫い直しと書いた。予算の欄に、三十銅貨。
「一つ、約束させてください。ほどいてみて、外から見えなかった傷みが見つかることがあります。その時は、私の判断で勝手に直したり、お代を足したりしません。必ずポーラさんにお知らせして、どうするか決めていただきます」
ポーラは受注票を読み、名前の欄に自分で書き込んだ。少し右に傾いた、丁寧な字だった。
お代は、直したあとに確かめてもらってからいただきます、とミレイユは言い添えた。
紐を何度か結び直してもらい、通路を往復してもらい、話を聞く。そのあいだに、窓の光はずいぶん動いていた。ミレイユは、それを料金のことと結びつけては考えなかった。
「靴を預けている間、お仕事はどうなさいますか」
ミレイユが尋ねると、ポーラは包みの布を畳みながら答えた。
「前に履いていた靴があります。少し小さいので長くは履けませんが、数日なら」
「仮に合わせて、通路を歩いていただく日を決めたいのですが、いつなら来られますか」
ポーラは指を折って数えた。
「三日後なら、夕方に奥様の使いで外へ出ます。その帰りに、少しだけなら」
「では、その時に。お待ちしています」
ポーラは頷いた。それから、立ち上がりかけて、また椅子に腰を戻した。
「あの」
ミレイユは手を止めた。
「直したあとも……私の足に合うか、確かめてもらえますか。ここで歩いた時だけじゃなくて、お屋敷で一日働いたあとに」
ミレイユは、受け取りの日の欄を見た。そこには日付を一つ書く場所しかない。
「はい。お仕事のあとに来ていただければ、何度でも見ます」
ポーラは初めて、少しだけ笑った。それから一礼して、鈴を鳴らして出ていった。
ミレイユは小さな札に「ポーラ様 踵・紐付け根 三十銅貨」と書き、靴の紐に結んだ。空だった受け取り棚の真ん中に、その一足を置く。
まだ一枚の銅貨も受け取っていない。それでも、棚の上の一足は、さっきまでの空の棚より、ずっと重く見えた。
明日の朝、この靴をほどく。




