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王都の靴職人は、シンデレラを帰らせたい  作者: 南野遥


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第4話 開店前の見積もり

 

 古道具屋の奥には、脚の揃わない椅子が積み重なっていた。

 ミレイユは一脚ずつ床に下ろし、座面に手をついて体重をかけた。揺れるもの、軋むもの、座面が斜めに沈むもの。張り布に刺繍の入った一脚は見栄えがよかったが、値札を見て、そっと元の場所へ戻した。

 店主の老人は、帳場で煙管をくわえたまま見ていた。


「座り比べる客は珍しいね」

「お客様に座っていただくので。足を測る時、膝の高さが揃っていないと困るんです」


 ようやく二脚、座面の高さが同じものを見つけた。飾りのない樫の椅子で、背もたれの塗りは剥げている。一脚は脚の付け根がわずかに緩んでいた。


「ここは、楔を打ち直せば締まりますか」

「締まるが、素人がやると割る。うちで直して三日だ。手間賃は少し乗るよ」


 ミレイユは少し迷ってから頷いた。革なら自分で縫える。けれど、椅子の継ぎ目は自分の仕事ではない。

 同じ店で、脚の太い中古の作業台も選んだ。天板には前の持ち主の刃物傷が残っていたが、平らさは確かだった。二脚の椅子と作業台の代金を払うと、買い物の紙の家具の欄は、ほとんど余白がなくなった。採寸台は後回しにし、低い踏み台に板を渡して代わりにすることにした。

 三日後、椅子が店に届いた。ミレイユは古布に蜜蝋を含ませ、座面と背もたれを磨いた。剥げた塗りは戻らない。けれど、木目の奥から鈍い艶が浮いてくる。

 白墨の四角の上に、一脚ずつ置く。真正面ではなく、少しだけ角度をつけて。座る人と、その足元を測る自分の目の高さが、ちょうど合うように。


 役所の登録窓口は、昼前から人が並んでいた。

 ミレイユの番が来ると、眼鏡をかけた担当者が書類を一枚差し出した。


「業種、責任者名、所在地、店名。扱う品目も書いてください」


 所在地の欄に、裏通りの名を書く。宿帳の空欄を埋めた時と同じ名前だ。責任者名に、ミレイユ・ロラン。品目の欄で、ペンが少し止まった。


「修理と、新しい靴の製作も書いて構いませんか」

「小規模の受注製作なら、この登録で扱えます。ただし、宮廷や官庁への納品契約、組合の上級資格が要る仕事は、別の審査です。今日の登録には含まれません」


 担当者は事務的に言い、手数料の額を告げた。ミレイユは頷き、品目に「靴の修理、小規模の受注製作」と書いた。

 最後に、店名の欄が残った。

 宿で何晩も考えた名前がいくつかあった。父の名を冠したものも、華やかな響きのものもあった。けれど、紙に書こうとすると、どれも自分の店の大きさに合わない気がした。

 お客様が、店の通路で最初の一歩を踏み出す。その一足を、確かめる。

 ミレイユは、ゆっくりと書いた。


 ――ひとあし工房。


 手数料を窓口に置くと、担当者が書類を読み返し、印を押した。朱の印が紙に沈む音が、思ったより重かった。


「控えです。所在地や責任者が変わったら届け出てください。苦情が来た場合も、こちらの名前に連絡が行きます」

 控えを受け取りながら、ミレイユは自分の名前を見た。これからこの店で起きることは、全部この名前に届く。良いことも、そうでないことも。


 革の問屋は、職人街の表通りにあった。

 棚には、染めの違う牛革が巻いて立てかけられている。底革用の厚い革は、端を持つだけで手首に重みが来た。


「ロランの工房の、妹さんだね」


 材料商の男は、ミレイユの顔を覚えていた。


「兄さんの名前で付けておこうか。月末払いで」

「いいえ」


 ミレイユは首を振った。


「兄の工房とは別の店です。今日は、現金でお願いします」


 男は少し眉を上げたが、何も言わずに帳面を閉じた。新しい店には、信用払いの帳面がない。それは当然のことだった。


「最初の仕入れなら、底革は一枚丸ごとがお得だよ。切り売りより、ずっと割安だ」


 ミレイユは丸ごとの底革を見上げた。確かに安い。けれど、修理だけで使い切るには、何か月かかるか分からない。その間、この革に払ったお金は、棚の上で眠ったままになる。


「踵の張り替えに使う分と、底の継ぎ当てに使う分だけ、切ってください。それから、黒と茶の甲革を少し。糸は麻を二巻き」


 男は言われた分を切り分け、紙で包んだ。


「それだけかい」

「最初はこれだけで。必要な分を、また買いに来ます」


 包みを受け取ると、思ったより軽かった。財布の方は、包みの重さ以上に軽くなった。

 店へ戻り、ミレイユは包みを作業台に広げた。革の匂いが、まだ何もない部屋に初めて広がる。嬉しかった。けれど、この革が靴に縫い付けられて、お客様が代金を払ってくれるまで、払ったお金は一枚も戻ってこない。

 ミレイユは手帳に新しい頁を作り、今日の仕入れ値を書いた。いつ、どの仕事に使ったかも、これからはここに書く。


 屋根の修繕は思ったより手間取り、ミレイユは宿をさらに数日延ばした。職人が屋根を直し終えた日、宿を引き払い、二階へ移った。寝台は古道具屋で一番安いものを買った。窓枠も新しくなり、隙間風は止まった。壁は自分で白く塗り直し、反った棚板は買ってきた板と取り替えた。

 契約から二週間が過ぎようとしていた。開店を二日後に決めた晩、ミレイユは作業台で料金表を書いていた。

 踵の張り替え。底の継ぎ当て。縫い目のほつれ直し。それぞれに、材料の値と、作業にかかる時間を考えて数字を入れる。書いては消し、また書く。三度目に書いた数字は、最初より安くなっていた。

 隣の受注票の雛形には、欄を並べた。名前、靴の状態、修理の内容、予算、受け取りの日。

 戸口を叩く音がして、アニエスが顔を出した。手には、焼いた菓子の包みがあった。


「明かりが見えたから」


 アニエスは包みを作業台の端に置き、料金表を覗き込んだ。しばらく黙って見てから、受注票の雛形を指先で叩く。


「これ、受け取りの日の欄はあるけど、途中で来てもらう日の欄はないのね」

「途中で、ですか」

「靴を直す前に、一度合わせてもらうんでしょう。直してから、また履いてもらって、具合を聞く。帽子なら、私は最低二回は来てもらう」


 ミレイユは頷いた。父の店でも、仮合わせは何度もあった。


「その分の時間は、料金表のどこに入ってるの」


 ミレイユは料金表を見た。材料と、作業の時間。お客様と話す時間も、二度目に来てもらう時間も、そこにはなかった。


「その半日、誰が払うの」

「……まずは、来てもらわないと」


 ミレイユは言った。


「最初から高いと思われたら、扉を開けてもらえません。知ってもらうまでは、このくらいで」


 アニエスは料金表をもう一度眺め、何か言いかけて、やめた。


「あなたの店よ。決めるのはあなた」


 それだけ言うと、アニエスは菓子の包みを少しミレイユの方へ押した。ミレイユは料金表を書き直さなかった。


 翌日の昼、ミレイユは看板を戸口の上に掛けた。

 古い板を削り直し、自分で文字を彫って墨を入れたものだ。踏み台に乗って釘を打っていると、帽子店からアニエスが出てきて、黙って踏み台の脚を押さえた。

 最後の釘を打ち終え、ミレイユは彫った文字を指でなぞった。『ひとあし工房』。墨はもう乾いている。指先が、溝の中の木のざらつきを拾った。その下に、小さな札を下げる。――修理承ります。朝の鐘から、夕の鐘まで。


「ひとあし、ね」


 アニエスが見上げて言った。


「一足の靴? それとも、一歩?」

「両方です」


 ミレイユは踏み台から降りた。


「父の店では、お客様が鏡の前で立つところまでしか見られませんでした。ここでは、どこへ歩いて行くのかを聞きたいんです。台所なのか、階段なのか、市場なのか。それを聞いてから、靴を見たい」


 アニエスは看板から目を下ろし、ミレイユの顔を見た。


「いい名前。じゃあ、まずは誰かに歩いてもらわないとね」


 ミレイユは、少しだけ笑った。


「家賃、最初のひと月分。明日開けるなら、今日のうちに受け取るけど」


 ミレイユは財布から十二銀貨を数え、アニエスの手に載せた。アニエスは一枚ずつ確かめ、受け取りを書いて渡した。受け取りの紙を、手帳の家賃の頁に挟んだ。


 その夜、ミレイユは店の中を見回した。

 まだ足りないものは、いくらでもあった。飾り棚はない。木型は一本もない。新しい靴を作るための台もない。全部が揃うまで待っていたら、店を開けられるのは何か月も先になる。

 けれど、修理なら明日から始められる。


 ミレイユは道具箱を開けた。革包丁を研ぎ、目打ちの先を確かめる。最後に父の錐を取り出し、古い布に油を一滴落として、柄を二度だけ往復させた。

 受注票の束を作業台の端に揃える。何も載っていない受け取り棚。磨いた二脚の椅子。その向こうに、七歩の通路が奥の壁まで伸びている。

 どんな人が、この扉を開けるのだろう。どんな靴を履いて、どこへ歩いて行く人だろう。

 ミレイユは灯りを落とし、二階への階段に足をかけた。


 翌朝、階段を下りると、裏通りからの光が通路の床に細く伸びていた。ミレイユは前掛けの紐を結び、戸口の閂に手をかけた。

 

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