第3話 裏通りの空き店舗
仲介人が鍵を回すと、磨かれた扉は音もなく開いた。
昨日、掲示板の前で長く眺めた店だった。職人街へ向かう前に、一度だけ中を見ておきたかった。通りに面した窓は大人の背丈ほどもあり、朝の光が床の上で四角く揺れている。窓辺には作り付けの飾り棚が三段。壁は白く塗り直されたばかりで、まだ漆喰の匂いがした。
「この通りなら、馬車で来られるお客様も多いですよ」
仲介人は窓の外を手で示した。向かいには仕立て屋と香水店が並び、着飾った女性が二人、笑いながら通り過ぎていく。
ミレイユは飾り棚の前に立った。ここに銀糸の靴を並べたら、どんなに映えるだろう。昨日と同じことを、もう一度思った。
「家賃と、保証金をもう一度伺えますか」
仲介人が答えた数字は、掲示の紙と変わらなかった。保証金は家賃の三か月分。ミレイユは頭の中で、四枚の紙を並べ直した。家賃の紙だけでは足りない。材料の紙から寄せても、食費の紙の月日が半分近く削れる。
値切れば、少しは下がるかもしれない。けれど、問題は値段の端ではなかった。
窓ガラスに、足元に置いた道具箱が映っていた。蓋の角が擦れた、小さな箱。広い床の真ん中で、それはひどく所在なげに見えた。
「ここなら、良い店に見えます」
ミレイユは言った。
「でも、ここでは靴を作り続けられません。家賃を払うために、作る時間を削ることになると思います」
仲介人は肩をすくめたが、引き留めはしなかった。ミレイユは礼を言い、道具箱を持ち上げた。磨かれた扉が背中で閉まる。
職人街へ向かう道は、石畳の継ぎ目が少しずつ粗くなっていった。
職人街の掲示板で写した住所は、三つとも外れだった。一軒はすでに決まっていて、一軒は窓がなく、もう一軒は家主が「女の一人住まいには貸さない」と戸口で言った。
四軒目を探して裏通りに入ったところで、帽子店の窓が目に留まった。羽飾りを付けた婦人帽が、木の頭型に載って並んでいる。その隣の戸口には、色褪せた「貸店舗」の札が下がっていた。
帽子店の扉を押すと、作業台の向こうで女性が顔を上げた。三十半ばくらい。口に待ち針を二本くわえ、手元では細い羽根を帽子の縁に留めている。
「隣の札のことかしら」
針を口から外しながら、彼女は言った。手は止まらない。
「はい。靴職人です。小さな店を探しています」
「靴」
女性は一度だけミレイユの手元の道具箱を見た。それから羽根の角度を指で直した。作業台の端には、型紙の束と、納期を書いた紙片が三枚留めてある。そのうち一枚には、明日の日付があった。
「何を置いて、何人を迎える店?」
ミレイユは少し考えた。今朝までなら、飾り棚や大きな窓のことを話していたかもしれない。
「作業台が一つ。木型の棚が一つ。お客様の足を測る台と、座っていただく椅子が二脚。それから、靴を履いて少し歩いてもらえる場所。迎えるのは、一度に一人か二人です」
「住むのは?」
「できれば、同じ建物に」
「お客様は、どこから来るの」
その問いには、すぐに答えられなかった。昨日、社交街の通りで見た足元を思い出す。底の薄い靴で駆けていく少年。踵を潰した靴の女。
「……たぶん、この辺りで働いている人たちです。修理から始めるつもりなので」
女性は最後の一針を通し、糸を切った。帽子を頭型に戻すと、引き出しから鍵を一本取り出す。
「アニエスよ。隣の家主。前は靴の修繕屋が入っていたの。見るだけならタダ」
「ミレイユ・ロランです」
隣の戸口は、帽子店より一段低かった。
アニエスが鍵を開けると、閉め切った空気と埃の匂いが流れ出してきた。窓は一つで、裏通りに面している。社交街の店の半分もない大きさだ。壁際に古い棚が残り、一段は板が反っていた。
「棚は前の借り主の置き土産。使うなら自分で直して。窓の建て付けと屋根は、家主の私が直す」
「入口は、通りからあまり見えませんね」
「そう。だから安いの」
アニエスは隠さなかった。ミレイユは頷き、部屋の中に立った。
ここに作業台。窓の光が手元に落ちる位置。指で床の上に四角を描く。壁際には木型の棚。直せば使える。入口の脇に、採寸の台。その前に、椅子が二脚。
そこまで決めて、ミレイユは入口から奥の壁へ歩いてみた。
一歩、二歩。床板が乾いた音を返す。五歩、六歩。七歩目で壁に手が届いた。
もう一度、入口へ戻る。今度は靴音を聞きながら。板の鳴り方は、一か所を除いて揃っていた。四歩目のあたりで、一枚だけ低く軋む。
「……通路になる」
「何?」
「試し歩きの通路です。靴を履いたお客様に、ここを往復してもらえます。七歩あれば、座っている時には分からないことが、少しは分かります」
父の店の接客室は、鏡の前に数歩しかなかった。あの時、夫人の靴音は二歩目で途切れた。もっと長い床があったら、自分はもっと早く気づけただろうか。
アニエスは返事をせず、奥の階段を指差した。
二階は天井が低く、窓が小さかった。寝台を一つ置けば、残りは鞄と道具箱でいっぱいになる。それでも、宿代を払い続けるよりはずっといい。
ミレイユは床の染みを指差した。
「ここは、雨漏りですか」
「屋根の方ね。私が直す。壁の塗り直しと棚は借り主。看板もね」
どこまでが家主で、どこからが自分か。ミレイユは手帳に二つの欄を作り、アニエスの言葉をそのまま書き分けた。
一階の窓を開けると、裏通りの風が埃を少しだけ動かした。
アニエスは窓枠に寄りかかり、ミレイユの手帳を覗き込んだ。
「最初のお客様が来なかったら、どうするの」
ミレイユは手帳をめくり、四枚の紙の写しを見せた。
「職人街の相場なら、切り詰めて四か月と見ています。最初は修理から始めます。新品の道具は、注文が入ってから揃えます。営業の登録は、契約が決まったら役所へ出します」
「四か月」
「切り詰めれば、です」
アニエスは紙の上の数字を一つずつ指でなぞった。からかう様子はなかった。
「家賃は月十二銀貨。保証金は二か月分。修繕に二週間はかかるから、そのあいだは家賃を取らない。代わりに、職人の出入りには文句を言わないこと。鍵は今日渡す。二階は屋根が直るまで寝ない方がいい」
「宿は前払いした分まで使います。家賃は、いつから」
「店を開けた日から数えて、ひと月ごと。各月の最初の十日以内に払って。開ける前に最初のひと月分をもらえると、私は安心」
ミレイユは手帳に書き取り、声に出して読み返した。アニエスが一か所だけ指で止める。
「修繕の範囲は、屋根と窓だけ。床は直さない」
「床鳴りが一か所あります」
「それは、あなたの通路の味ってことにして」
ミレイユは思わず笑い、それから真顔に戻った。
「もし、払えない月が来たら」
「その時は、黙る前に相談して」
アニエスは窓枠から身を起こした。
「待ってあげるとは言ってない。でも、黙って夜逃げされるより、相談される方がずっといい。私にも、帽子の材料の支払いがあるの」
ミレイユは窓の外へ目をやった。裏通りを、籠を背負った女が通り過ぎていく。昨日の社交街の窓とは比べようもない、細い通りだ。けれど、あの女がもし靴の踵を直したくなったら、七歩の通路まで歩いてくるのに、馬車は要らない。
「借ります」
アニエスは頷き、「じゃあ、契約書を取ってくる」とだけ言った。戸口で振り返った顔が、少しだけ笑っていた。
契約書は、アニエスが帽子店から持ってきた。二人で一枚の紙を挟み、一行ずつ指で押さえて読む。家賃、保証金、入居日、修繕の範囲、支払いの期限。ミレイユは最後の行まで読み終えてから、ペンを取った。
保証金を数えて渡すと、手の中の袋が分かりやすく軽くなった。手帳の四か月の横に線を引き、保証金と、開店前に払う最初のひと月分を差し引いて書き直す。月日の数字は、さっきより短くなった。
アニエスが帽子店へ戻ったあと、ミレイユは一人で一階に残った。
道具箱を床に置き、買い物の紙を広げる。修繕が終わるまでに、作業台を一つ。木型の棚の板。採寸の台。それから、椅子を二脚。
作業台の値段を書き込むと、椅子の欄に回せる額はほとんど残らなかった。新しい椅子を二脚買えば、材料の紙の数字が減る。椅子を一脚にするか、作業台を安いものにするか。
ペンの先で、しばらく紙を叩いた。椅子を減らせば、相談は立ち話になる。作業台を安物にすれば、修理の質が落ちる。どちらも、手放していいものには思えなかった。
お客様を立たせたまま、足の話を聞く店にはしたくなかった。一人が座って、自分も向かいに座る。同じ高さで、どこへ歩いて行くのかを聞く。そのための二脚だ。
ミレイユは道具箱の隅から、革に印を付けるための白墨を出し、入口の脇の床に、小さな四角を二つ描いた。並んだ二つの印の向こうに、七歩分の通路が奥の壁まで続いている。
明日、古道具屋を回ろう。脚が多少がたついていても、直せばいい。
白墨を戻し、ミレイユはアニエスから受け取った鍵を手の中で一度だけ転がした。それから自分の袋の、一番奥にしまった。
戸口を出て振り返ると、色褪せた貸店舗の札はもう外されていた。帽子店へ戻る時に、アニエスが外していったのだろう。宿へ戻ったら、宿帳の空欄に、この裏通りの名を書ける。




