第2話 私の道具、父の道具
翌朝、ミレイユは店を開ける前に、作業台の端へ布を一枚広げた。
その上に、自分の道具箱の中身を一つずつ並べていく。革包丁が二本。目打ち。菱錐。糸を締める木べら。仕上げ用の磨き棒。刺繍針の小箱。布に置くたびに、乾いた音が朝の作業場に響いた。
向かいでは、兄が帳面を開いていた。工房の備品台帳だった。父の字と兄の字が交互に並び、買った日付と値段が記してある。
紙は三つに分けてあった。工房の共有のもの。自分が賃金で買ったもの。父の遺産として、自分の取り分に分けられたもの。
「その革包丁は」
「去年の秋、私の賃金から買ったもの。受け取りも残ってる」
兄が台帳に目を落とし、頷いた。ミレイユは紙に「本人購入」と書き、包丁の名を加えた。
「菱錐は」
「……それは、工房の金で買ったものだと思う」
ミレイユは自分で言って、台帳の行を探した。三年前の冬、父の字で「菱錐、二本」とある。一本はいま兄の手元にあり、もう一本がずっと自分の箱に入っていた。毎日握っていたから、自分の物のような顔をしていただけだ。
菱錐を共有の側へ移すと、布の上にぽっかりと隙間ができた。
棚へ手を伸ばしたところで、指が一本の木型に触れた。中くらいの婦人用で、子どもの頃から何度も革を当ててきた型だ。踵の曲線を覚えているのは目より手の方だった。
持ち上げて、背を返す。兄の字で、工房の番号が書いてある。その下に、かすれた父の字で、同じ番号がもう一度。
ミレイユはしばらくそれを見てから、棚へ戻した。
「使い慣れているから持っていっていい、っていうのとは違うね」
兄は何も言わず、台帳に印を付けた。
仕分けを終えて道具箱へ戻すと、蓋は思っていたより簡単に閉まった。足りないものが、箱の隙間の分だけはっきり見えた。木型が一本もない。底革を叩く台もない。大きな裁ち台もない。
棚の最後の段に、細長い革の包みが残っていた。
兄がそれを取り、包みをほどく。中から出てきたのは、柄の黒ずんだ錐だった。
「父さんのだ」
兄は台帳の後ろの方をめくった。父の字で、短い一行が書かれている。――錐一本、ミレイユへ。
日付は、父が亡くなる半年前だった。
「これは、お前のだ」
兄はそれだけ言って、錐を布の上に置いた。
ミレイユはすぐには手を伸ばせなかった。柄は持ち主の掌の形に削れ、指の当たるところだけ色が薄い。父は仕事の終わりに、この柄を古い布で磨いていた。油を一滴落とし、布を二度往復させる。それ以上も、それ以下もしない。急ぎの注文がある夜でも、その二往復だけは省かなかった。子どもだったミレイユが真似をして油を垂らしすぎた時、父は笑いもせず、余った油を自分の布で拭き取った。
握ってみると、柄はミレイユの手には少し太かった。けれど、穂先の角度には見覚えがあった。
「ありがとう」
兄は台帳を閉じた。それで話は終わりだという仕草だった。昨夜の話の続きを、兄はしなかった。ミレイユも、しなかった。
錐を包みに戻しながら、ミレイユは棚に並ぶ共有の工具を見渡した。底革用の大きな包丁も、父が使っていた木槌も、ここに置いていく。必要な分は、買い直す。
「木型は、どうする」
兄が棚を見たまま言った。
「自分で手に入れる。最初は、修理に要る分だけでいい」
兄はそれ以上聞かなかった。
錐があれば縫い穴は開けられる。けれど、縫ってほしい靴を持った客までは連れてきてくれない。
店の表で、扉の鈴が鳴った。兄が上着を取って出ていく。仕上げを待つ棚には、銀糸の蔓草の靴が、仮合わせの時の形のまま置かれていた。
その晩、ミレイユは家の二階の小部屋で、寝台の上に財布の中身を広げた。
自分の賃金から貯めてきた分。父の遺産のうち、自分の取り分として分けられた分。二つの袋を、まず別々の山にする。
紙を四枚用意した。道具。家賃。材料。食費。出所を確かめてから、貨幣を四枚の紙の上へ配り直していく。
はじめに書いたのは道具の紙だった。底革を叩く台、裁ち台、木型を数本、作業台を一つ。父の工房にあったのと同じ、両腕を広げても端に届かない大きな台を思い浮かべて、ペンが止まった。
その値段を道具の紙に書き込み、家賃の紙と材料の紙に、まだ分からない数字の分だけ余白を取る。最後に食費の紙を見ると、そこに残るのは、思っていたより短い月日だった。
家賃がいくらになるのかも、まだ分からない。店を借りれば、保証金も要るだろう。材料は、最初は現金で買うしかない。注文が入ってから仕入れるにしても、見本の革くらいは手元に置いておきたい。
客が来るまで、何か月暮らせるのか。来なかったら、何か月で終わるのか。
ミレイユは銅貨を一枚つまみ、道具の紙から食費の紙の上へ移した。もう一枚。さらにもう一枚。
それから、大きな作業台の行に線を引いた。
線を引いてから、気づいた。自分は、父の工房をそのまま別の場所に作ろうとしていたのだ。大きな台も、壁一面の木型も、何人もの客の注文も。けれど最初の日に来る客は、たぶん一人か、ゼロだ。その一人の靴を直すのに、両腕を広げる台は要らない。
父がこの家で工房を始めた時も、たぶん最初から今の形ではなかったはずだ。それを、自分は一度も聞いたことがなかった。
新品を一足作るには足りない。けれど修理からなら、始められる。
ミレイユは道具の紙の一番上に、「修理」と書いた。その下に、小さな台、と書き直した。
家を出たのは、それから三日後の朝だった。
荷物は道具箱と、衣類を詰めた鞄が一つ。三日のあいだに、ミレイユは引き継ぎの帳面を作り、自分が担当していた客の好みと寸法の控えを接客室の引き出しに残した。刺繍の途中だった一足は、図案と糸の番号を付けて兄の台へ置いた。戸口まで来ると、兄が作業場から出てきた。前掛けをしたまま、手に削り屑が付いている。
「宿は決めたのか」
「職人街の手前の、週払いのところ」
兄は頷いた。週の宿代がいくらかとは聞かなかった。それから、少し間を置いて言った。
「困ったら、接客に戻ればいい。お前の客あしらいは、うちの得意先も気に入ってる」
それは兄なりの心配で、たぶん本当のことでもあった。鏡の前で顔をほころばせる客を、ミレイユは何人も見送ってきた。慣れた接客室の床の音も、表の鈴の音も、目を閉じれば聞こえる。この戸口をまたがずに、明日も同じ場所に立つことは、今ならまだできる。
ミレイユは鞄の持ち手を握り直した。
「心配してくれて、ありがとう」
兄の目を見て、続ける。
「でも、作る仕事を選びたいの。戻る時が来ても、その条件は変えたくない」
兄は何か言いかけた。分かった、とも、勝手にしろ、とも言わなかった。ただ一度、短く頷いた。
道具箱の取っ手が、掌に食い込んだ。ミレイユは敷居をまたいだ。背中に、膠と革の匂いがしばらく付いてきた。
宿の帳場で七日分の代金を払うと、女将は宿帳の連絡先の欄を指でとんとんと叩いた。
「何か届いた時のために。店をやるなら、そっちの住所も書いておくといいよ」
ミレイユは宿の名を書いた。店の欄は、空けたままにした。
荷物を部屋に置き、その足で社交街の掲示板へ向かった。貸し店舗の紙が何枚も貼られている。大通りに面した、大きな窓のある店。磨いた石の外壁の店。どれも、家賃の欄に並んだ数字が、家賃の紙に取った余白に収まらなかった。保証金の欄を見て、ミレイユは思わず指で数え直した。
それでも、一枚だけ長く眺めた。窓辺に飾り棚を置ける、明るい店だった。あそこに銀糸の靴を並べたら、どんなに映えるだろう。
紙を一枚ずつ写しながら、ミレイユは通りを行く人の足元を見ていた。
艶のある靴が、石畳を短い歩幅で渡っていく。その横を、荷を抱えた下働きの少年が、底の薄くなった靴で駆け抜けていく。水桶を提げた女が、踵の潰れた靴を引きずるようにして角を曲がった。
この通りで店を構えれば、見栄えはいい。けれど、自分が見たいのはどの足だろう。
夫人の靴音が途切れた、あの一瞬を思い出す。ああいう足は、この通りにだけあるわけではない。
客が店に入ってくる時、その人は自分の足で、その通りを歩いてくる。修理を頼みたい靴を履いて、あるいは手に提げて。店の窓がどれだけ明るくても、その道のりが遠ければ、扉までたどり着かない人もいる。
帰り道、職人街に近い掲示板にも寄った。紙は少なく、書かれた条件も簡素だった。それでも家賃の数字は、社交街の半分ほどのものがいくつかある。
宿に戻ると、ミレイユは写した紙を畳み、小さな卓の上に置いた。道具箱を寝台の脇に寄せ、父の錐の包みを一番上に載せる。
明日は職人街を歩こう。その先の、裏通りまで。
宿帳の空欄を埋めるのは、それからだ。




