第1話 綺麗な靴は、歩けなくてもいいのですか
艶を出した黒い革が、窓からの光を細く返していた。
爪先へ向かって絞られた形に、踵へ流れる縫い目が一筋。履き口の縁には、銀糸で小さな蔓草が刺してある。その蔓草を刺したのはミレイユ自身だったが、こうして足に収まった姿を見ると、自分の手を離れた別の美しさに思えた。
仮縫いの段階から、ミレイユはこの靴が好きだった。細く絞った爪先は、歩くたびに裾の下からほんの少しだけ覗くように計算されている。裾が揺れれば、銀糸が光る。そういう靴を前にして美しいと思わずにいられるほど、彼女は靴に無関心ではなかった。
「まあ」
オーブリー夫人が鏡の前で息をついた。付き添いの侍女も、裾を持ち上げたまま小さく頷く。
「素敵ですわ、奥様」
「ええ。商会の記念式典には、これで出られるわね」
ミレイユは膝をついたまま、踵の位置を確かめた。立ち姿に乱れはない。足首の線も細く整って見える。兄が削った木型の、迷いのない線だった。
「では、少し歩いてご覧になりますか」
ミレイユは立ち上がり、鏡の前の通路を空けた。接客室の床は板張りで、靴音がよく響く。歩いた時の音で靴の具合が分かることもある――父がよく言っていた。
夫人は鏡に向かって一歩を踏み出した。
コツ、と床が鳴る。
二歩目の音は来なかった。夫人の手が、すぐ横の椅子の縁を探していた。指先が背もたれを掴み、それから何事もなかったように離れる。
「……少し、床が滑りますのね」
床は今朝、ミレイユが自分で拭いた。滑るような仕上げではない。
夫人は笑っていた。笑いながら、もう一度歩き出そうとはしなかった。
「奥様、よろしければ一度お掛けになってください」
ミレイユは椅子を引いた。夫人が腰を下ろすと、侍女がほっとしたように肩を下げる。
「歩くと、どこか気になりますか」
「いいえ、そういうわけでは」
「式典では、どのくらい立っていらっしゃるのでしょう」
夫人は少し考えた。
「ご挨拶をして回って……そうね、二時間ほど。座れる時間はあまりないでしょうね」
「二時間」
ミレイユは繰り返し、夫人の足元を見た。お手を触れても構いませんかと断ってから、履き口に指を添える。小指の付け根のあたりで、革が肌に食い込むように張っていた。爪先の絞りが、この方の足には指一本分だけ早い。
「この辺りに、当たりはありませんか」
侍女が何か言いかけて、口を閉じた。夫人の視線が一瞬侍女へ向き、それから鏡の中の自分へ戻る。
睫毛が揺れた。答える前に、夫人は指で靴の蔓草を撫でた。銀糸の上を、何度か。
「……少しだけ。でも、新しい靴はそういうものでしょう。慣れれば平気なのでしょう?」
その言い方が、問いなのか、自分に言い聞かせているのか、ミレイユには分からなかった。ただ、夫人がこの靴を気に入っていることは分かった。蔓草を撫でる指が、手放したくないと言っていた。
だからこそ、と思う。
「細い形を残したまま、当たるところだけ直せるかもしれません。工房で確かめさせていただけませんか――」
「お待たせいたしました、奥様」
奥の扉から兄のマティアスが入ってきた。前掛けを外し、客向けの上着に袖を通している。兄はミレイユの手元をちらりと見て、すぐ夫人へ笑顔を向けた。
「仕上がりはいかがでしょう。式典に間に合わせるためにも、このまま予定どおり仕上げる方が安心かと存じます」
「ええ……そうね。そうしていただける?」
夫人は立ち上がった。今度は椅子に手をつかず、ゆっくりと。
客を見送ったあと、作業場には膠と革の匂いが籠っていた。
兄の作業台の上には納期札が並んでいる。釘に掛けられた札は、端が重なって読めないほどだった。
「さっきのは何だ」
「木型を確かめさせてほしいの。小指の付け根が当たってる。仮合わせを一度増やせば――」
「式典まで十日だ」
兄は札の一枚を指で弾いた。
「木型を直せば、甲革を裁ち直すことになる。銀糸の刺繍もやり直しだ。お前が三晩かけたやつをな。そのあいだ、こっちの札は全部待たせるのか」
ミレイユは言葉に詰まった。刺繍の手間は、自分が一番よく知っている。
当たる部分にだけ内側から革を足して、甲革は生かせないか。刺繍の位置を少し逃がせないか。頭の中には、いくつか方法が浮かんでいた。けれど、それを試すための台も時間も、自分には与えられていない。
どれも、靴の内側で当たりを消すための工夫だった。
「それに、あの形を望んだのは奥様だ。今年はああいう線が流行っている。全員がお前の思う楽な形を求めているわけじゃない」
それは、たぶん本当だった。鏡の前の夫人は、心から嬉しそうだった。
「だから、本人に聞きたいの」
ミレイユは言った。
「形を変えたいんじゃない。あの靴で二時間立っていられるかどうかを、聞きたいだけ」
「聞いて、作り直せと言われたらどうする。間に合わないと謝るのか」
「間に合う方法を、一緒に考える」
「考えるのは俺だ」
兄は札を戻し、背を向けた。木型を削る小刀が、また規則正しい音を立て始める。削り屑が床に落ちる。兄の小刀は迷わない。父の生前から、木型を削らせれば兄の方が速かった。
ミレイユはその背中を見ていた。父が亡くなってから一年、兄はこの店と、父が残した借りと、古いお得意様の期待を一人で抱えている。その重さを知らないわけではない。
それでも、耳の奥に夫人の声が残っていた。
――慣れれば平気なのでしょう?
店の鎧戸を閉めると、まだ冷たい初春の風が隙間から入ってきた。最後の灯りを落とす前に、ミレイユは兄の作業台の前に立った。言葉は昼のうちに何度も組み立てていた。声を荒らげないこと。具体的に頼むこと。
「お願いがあるの」
兄は帳面から顔を上げなかった。
「製作を、私にも任せてほしい。大きな仕事でなくていい。修理の延長でも、普段履きの一足でも。採寸から仕上げまで、一つ通して」
「お前には接客と飾りがある」
「父さんの下では、作っていた」
「父さんの下では、な」
兄はようやくペンを置いた。
「いいか、ミレイユ。うちの得意先は、ロランの靴を買いに来るんだ。父さんの代からの名前をな。そこへ女の手の仕事と思われたら、得意先が不安がる」
「誰が、そう言ったの」
兄は黙った。
「お得意様の誰かが、私の作った靴は嫌だと言ったの?」
「言われてからじゃ遅い」
「その不安を確かめる前に、私の仕事を止めるの?」
兄は答えなかった。答えないまま、帳面を閉じた。それが返事だと、ミレイユには分かった。今日だけの話ではない。明日も、来年も、この作業台の前に立つのは兄で、自分は表の接客室で銀糸を刺している。
それが嫌なわけではなかった。刺繍は好きだ。客が鏡の前で顔をほころばせる瞬間も好きだ。けれど、その靴を履いて家へ帰り、翌日も翌々日も歩く人の足を、自分は一度も最後まで見たことがない。
作業場を見回した。父の使っていた場所に、兄の道具が並んでいる。自分の作業場所は、子どもの頃に父が空けてくれた隅の小さな台のままだった。棚の木型の背には、兄の字で客の名が書き込まれている。父の字は、もう奥の数本にしか残っていない。
ミレイユは息を吸った。頼むのは、もうやめようと思った。
「兄さん。私、この店を辞める」
兄が立ち上がった。
「……何を言ってる」
椅子の脚が床を擦る。
「早まるな。どこへ行くつもりだ。住むところは。金は」
「まだ決めてない」
正直に答えると、兄は呆れたように額を押さえた。その仕草が父に似ていて、ミレイユは少しだけ胸が詰まった。
「だったら――」
「だから、明日話をさせて。私の道具と、私の持ち分のことを、ちゃんと確かめたいの。勝手に持ち出したりはしない」
兄が言葉を探しているあいだに、ミレイユは続けた。
「父さんの店を潰したいわけじゃない。兄さんの靴がきれいなのも、ちゃんと知ってる」
兄は何も言わなかった。ただ、灯りの下で、彼の手が帳面の角を何度か揃えていた。言いたいことがある時の癖だと、ミレイユは昔から知っている。けれど今夜、その言葉は出てこないようだった。
ミレイユは自分の台へ戻り、道具箱の蓋に手を置いた。開けはしない。中に何が入っているか、目を閉じても言える。足りないものが何かも、たぶん明日になれば分かる。持っていける物と、置いていく物。新しく買わなければならない物。それを数えるのは明日でいい。今夜は、決めたことを手放さずにいればいい。
蓋の木目は冷たく、少しずつ掌の温度に馴染んでいった。
夫人は、あの靴で式典へ行くだろう。二時間、笑って立ち続けるだろう。そのことに、自分はもう何もできない。
けれど、次の誰かには。
鏡の前で一歩を踏み出し、二歩目で止まってしまう誰かには、尋ねることができるはずだ。どこへ歩いて行くのか。どれだけ歩くのか。その靴で、本当に平気なのか。
だったら私は、歩くところまで見届けられる店を作る。




