第10話 雨の日の試し歩き
革の問屋の棚の前で、ミレイユは二枚の甲革を両手に一枚ずつ持った。
どちらも油をたっぷり含ませた、茶色の革だった。大きさもほとんど同じ。それなのに、右手の方がはっきりと重い。
「重い方が、水には強いよ」
材料商の男が言った。
「厚みがあるし、油もよく入ってる。雨の中を一日歩いても、中まで染みない」
ミレイユは重い方を曲げてみた。硬い。履き始めは、甲に当たるだろう。リュシーは配達で片手に花束を持ち、もう片方の手で裾を押さえて歩く。重い靴は、夕方には足を引きずらせる。
軽い方を曲げる。素直にしなる。油は重い方より少ないが、表に蝋を擦り込めば、雨の日の配達くらいは持ちそうだった。ただし、手入れを怠れば、重い方より早く水を吸う。
「爪先に穴飾りを入れると、見栄えがいいよ。今はやりだ」
材料商が型紙を見せた。小さな穴を花の形に並べた飾りだった。綺麗だと思った。けれど、穴の一つ一つから雨が入る。リュシーは、飾りの話を一度もしていない。
「今回は、なしで」
ミレイユは軽い方を一枚、取り置いてもらった。どちらの革にしても使う底革と、蝋と、麻糸だけを、その場で買った。
その足で花店へ寄った。リュシーは水桶の前で、薔薇の棘を落としていた。
「雨の日の配達は、どのくらいありますか。一番遠いのは」
「週に一度か二度。遠いのは上の屋敷街。往復で半刻くらい」
ミレイユは選んだ革の切れ端を見せ、重い革と比べた理由を話した。
「値段は変わりません。その代わり、月に一度、油と蝋を入れてください。やり方は、お渡しの時に紙に書きます」
「手入れ、ね」
リュシーは切れ端を指で撫で、それから頷いた。
「毎朝、花の茎を切るのと同じでしょ。それなら続けられるわ」
ミレイユは記録紙に、選んだ革と、手入れの約束を書き足した。合計は、六銀貨のままだった。
帰りに問屋へ戻り、取り置きの革を引き取った。支払いを済ませると、財布はまた薄くなった。
ベルナールの木型は、約束の五日目に仕上がっていた。
受け取りに行くと、ベルナールは何も言わずに木型を作業台に置いた。ミレイユは持ってきた図面を広げ、踵の幅、後ろの立ち上がり、爪先の反りを、一つずつ指で当てて確かめた。赤で塗った線が、そのまま木の形になっている。爪先は、書き付けのとおり、わずかに上へ反らせてあった。
一銀貨と二十銅貨を数えて渡すと、ベルナールは一枚ずつ確かめてから帳面に付けた。
「仮履きで何か出たら、持ってこい。削る分なら、まだ削れる」
それだけ言って、また小刀に戻った。
店へ戻ってから四日、ミレイユは甲革を裁ち、縫い、木型に吊り込んだ。底はまだ仮に留めただけの、試しの一足だった。
仮合わせの日、リュシーは配達の籠を空にして持ってきた。ミレイユは、店の通路を歩いてもらう前に、籠に布の包みを二つ入れた。重い物は入れない。持ち方だけ、いつもと同じにしてもらうためだった。
リュシーは片手で籠を抱え、もう片方の手で裾を押さえて、通路を往復した。奥の壁の前で籠を床に下ろし、また抱え上げる。屈んだ時に踵が抜けないか、ミレイユはそこだけを見ていた。四歩目の床が鳴る。三度目に戻ってきた時、足を止めた。
「踵は、いい。ちゃんと包まれてる。でも、ここ」
リュシーは甲の真ん中を指で押さえた。
「紐の三つ目の穴のあたり。歩いてると、そこだけ押される」
ミレイユはしゃがんで確かめた。甲の高いリュシーの足では、三つ目の穴の下で紐が食い込んでいる。木型の寸法は合っている。けれど、紐を締めた時の力が、その一点に集まっていた。
ミレイユは、三つ目の穴を指一本分だけ外へずらすことにした。穴を開け直すのではなく、紐穴の並ぶ縁の革だけを裁ち直す。紐の下に入る舌革にも、薄い革を一枚重ねる。
「ずらしてもいいですか。紐の並びが、少しだけ不揃いに見えます」
「見た目より、押されない方がいい」
ベルナールの削った木の形と、自分が決めた穴の位置。その二つが、一足の上で重なっていく。
仮合わせから納品までの日々は、昼と夕方で二つに分かれた。
昼は、修理の客を迎えた。台所番の留め金の靴は、十五銅貨で受け渡した。馬丁の少年の長靴は、底の穴を塞いで三十五銅貨。少年は母親から預かった銅貨を、手のひらの汗ごと差し出した。エクトルの茶色の短靴は、約束の日にもう渡してある。二十五銅貨は、もう売上の頁に書いてあった。
受け取りに来た客の札と、棚に残った靴の札を、ミレイユは毎朝照らし合わせた。新品の作業に夢中になって、修理の受け取り日を一日でも過ぎれば、その客はもう来ない。
夕方からは、リュシーの靴に戻った。
紐穴の縁の革を裁ち直して甲に縫い付け、底を本付けする。縫い目に蝋を引き、底の踵と指の付け根にだけ、細かな刻みを入れる。刻みは深すぎれば底が割れ、浅すぎれば濡れた石を掴まない。端切れに何度も試し彫りをしてから、本物の底に刃を入れた。底に蝋を染ませると、一晩では乾かなかった。翌朝、指で押すとまだ柔らかい。もう一晩置いた。三日目の朝、ようやく革が締まった。
材料の支払いは、靴が仕上がるのを待ってくれない。修理の銅貨が入るたびに、ミレイユはそれを売上の頁に書き、仕入れの頁の数字と見比べた。見比べてみると、修理の収入で、ちょうど材料代が埋まるくらいだった。
次のひと月分の家賃の期日も、もう手帳の端に書いてある。
急げば、もう一日早く渡せた。けれど、蝋の乾かない底で雨の路地を歩かせれば、最初の一日で刻みが潰れる。ミレイユは、乾くのを待った。
完成した靴を渡す日は、朝から雨だった。
昼過ぎに雨が上がり、リュシーが籠を抱えて来た。店の通路で、まず一度履いてもらう。踵、甲、指の付け根。リュシーは三往復して、頷いた。
「表で、少し歩いてもいいですか」
ミレイユが言うと、リュシーは目を丸くした。
「外で?」
「雨上がりの石畳は、店の床とは違います。リュシーさんがいつも歩く速さで、歩いてみてください」
裏通りの石畳は、まだ黒く濡れていた。リュシーは籠を抱え、いつもの配達の速さで通りの端まで歩き、引き返してきた。ミレイユは、その足の運びを見ていた。踵が石を捉え、指の付け根で蹴り出す。刻みのある場所が、ちゃんと石に当たっている。
「どうですか」
「……滑らない」
リュシーは自分の足元を見下ろした。それから、顔を上げた。
「滑らない、っていうより、気にならない。足元を見ないで歩けた」
「ありがとうございます。ただ、どんな石でも滑らない、とは言えません。苔の付いた石段や、濡れた木の板の上では、今までと同じように気をつけてください。刻みがすり減ってきたら、また見せてください」
リュシーは頷き、もう一度通りを往復した。今度は、ミレイユの方を見ずに歩いていた。その目は、通りの先の、配達先の方角を見ていた。
戻ってきたリュシーが、紐の端を指でつまんだ。
「これ、少し長いわね。籠を下ろす時に踏みそう」
ミレイユは店に戻って紐を指二本分切り詰め、端を焼いて留めた。リュシーはもう一度結び、それで頷いた。
接客席で、ミレイユは一枚の紙を渡した。
濡れたら、布を詰めて陰で干すこと。火のそばには置かないこと。月に一度、油と蝋を入れること。刻みがすり減ったら、底の張り替えができること。三か月したら、一度見せに来てほしいこと。
「花の世話より、楽そうね」
リュシーは紙を読み返し、三か月、のところを指で叩いた。
「忘れそうだから、店の暦に書いておく」
リュシーは紙を畳み、布袋から銀貨を六枚出して卓に並べた。
「それから、同じ通りの青果店で働いてる子がいるの。重い木箱を一日中運んでるのに、靴がすぐ駄目になるって。ここのこと、話してもいい?」
「はい。まずは、一度お話を伺える日を決めましょう」
ミレイユは相談の日だけを決め、記録紙の端に書いた。
新しい靴で、リュシーは花籠を抱えて出ていった。濡れた石畳に、揃った足音が遠ざかっていく。
閉店後、ミレイユは手帳を開いた。売上の頁に、六銀貨。それから仕入れの頁を開き、木型の加工代、甲革、底革、裏革、蝋、糸を書き出して引いていく。試しの一足で使った端の革も、引いた。
六銀貨から、ベルナールへの一銀貨と二十銅貨。革と蝋と糸で、一銀貨半ほど。残りは三銀貨と少し。それが、十日あまりの仕事の手元に残る分だった。家賃は、ひと月で十二銀貨かかる。
残った数字を見て、ミレイユはペンを置いた。
十日あまり、昼も夕方もこの一足のことを考えてきた。その日々が、この数字の中のどこにあるのか、手帳には書いていない。家賃の期日の印が、手帳の端からこちらを見ていた。
受け取り棚は空いていた。作業台の上には、リュシーの足の図面と、ベルナールの木型だけが残っている。
客は喜んだ。けれど、月末に使えるお金は、思ったほど増えていなかった。




