第11話 看板の下に残るもの
閉店の鐘が鳴ったあと、ミレイユは作業台の上の道具を片付け、手帳と貨幣の袋を並べた。
作業台の端には、裁ったばかりの甲革が一足分重ねてある。青果店で働くジャンの仕事靴だった。リュシーが紹介してくれた日の翌日に相談に来て、その場で足を測った。木箱を肩に担いで、荷車と店の間を一日に何十往復もするのだという。幅の広い、指の長い足で、棚に残っていた中古の木型の二本目が、ほとんどそのまま合った。木型代はかからない。四銀貨四十銅貨で受け、底を仮に留めた状態で仮合わせをする。日取りは、ジャンの店の休みに合わせて決めることになっていた。そのための革と糸は、もう買ってあった。
ミレイユは売上の頁を開いた。ポーラの三十銅貨から始まり、修理の銅貨が並び、リュシーの六銀貨で一度大きく膨らんでいる。合わせれば、七銀貨と四十銅貨。
次に仕入れの頁を開いた。材料、中古の木型、ベルナールへの加工代。
それから、手帳の前の方をめくった。宿代。保証金。椅子と作業台。寝台。登録の手数料。看板の板。最初のひと月分の家賃。
ミレイユは、ペンを止めた。
今まで、全部を一つの数字として見ていた。財布の中身が減っていくのを見て、店がうまくいっていないのだと思っていた。けれど、宿代も保証金も椅子も、店を開ける前に一度だけ払ったものだ。お客様が来る前の出費と、店を開けてからの出入りを、同じ秤に載せていた。
紙を三枚取った。開店前の出費。毎月の支出。受けた仕事の収入。貨幣の山を、その三枚の上に分けていく。
分けてみると、一つ一つの仕事は、材料代より多くの銀貨を残していた。けれど、そこから家賃と食費を引くと、足りなかった。足りない分は、開店前に残しておいたお金から出ている。思っていたほどひどくはない。けれど、このままでいいわけでもなかった。
ミレイユは、家賃の分の十二銀貨を数え、別の小さな袋に移した。袋の口を固く結ぶと、作業台の上が少し静かになった気がした。
次の月の材料。ジャンの靴に使う、残りの材料。食費。紙の上の数字を何度足しても、どこまで切り詰めればいいのか、答えが出なかった。
ミレイユは手帳を閉じた。一人で数字を睨んでいても、同じところを回るだけだ。
翌日の夕方、帽子店の扉を叩くと、アニエスは作業台を半分片付けて待っていた。
ミレイユは、まず小さな袋を差し出した。
「次のひと月分の家賃です」
アニエスは袋を開け、銀貨を一枚ずつ数えた。それから受け取りを書いて渡した。期日まで、まだ二日あった。
「はい、確かに。じゃあ、見せて」
家主の顔から先輩の顔へ、声の調子が少しだけ変わった。
ミレイユは三枚の紙を広げた。アニエスは指で一枚ずつ押さえ、黙って読んだ。
「分け方は、これでいいわ。開ける前のお金は、もう戻ってこない。だから、毎月の分とは混ぜない」
「店を始めてからの分だけ見ると……少し足りないんです」
「最初の月で、足りてる店の方が珍しいわよ」
アニエスは自分の作業台の引き出しを開け、使い込んだ帳面を一冊取り出した。表紙に、材料帳とある。開いた頁には、羽根、リボン、型紙の糸と、細かい数字が並んでいた。その横に、納期を書いた紙片が三枚留めてある。
「私だって、来週納める帽子の代金が入るまでは、この羽根の支払いを待ってもらってる。帽子屋を十年やってても、そんなものよ」
ミレイユは帳面の数字を見た。アニエスの店にも、払う日と入る日のずれがある。
「修理のお客様は、増えてきているんです。ポーラさんの紹介で、同じお屋敷の方が何人も」
「それは、いいこと」
アニエスは受注の紙をめくり、ポーラの受注票の裏で指を止めた。書き込みで埋まった裏面だった。
「このお客さん、何回来てるの」
「五回です。最初の相談と、仮合わせと、勤務のあとの報告と、直したあとの確認と、最後の精算で」
「五回で、三十銅貨」
アニエスはそれだけ言って、紙を戻した。ミレイユは何か答えようとしたが、言葉が見つからなかった。
「来月の分は、こうしましょう」
アニエスは白い紙に、次の家賃の期日、材料の支払い、ジャンの靴の代金が入る予定の日を、日付の順に並べて書いた。
「入る日と出る日を、横に並べておくの。そうすると、どの週が苦しいか、前もって分かる」
ミレイユはその紙を受け取った。家賃を待ってくれるとは、アニエスは一言も言わなかった。その代わり、帰り際に、帽子の型紙の切れ端で作った小さな栞を一枚くれた。手帳の、家賃の頁に挟むようにと。
四日後の昼、鈴が鳴った。
ポーラだった。紺の服で、買い物袋は提げていない。
「今日、半日のお休みなんです」
ポーラは受け取り棚に目をやった。札の付いた靴が、また並び始めている。
「マルトさんが、ここの棚がいっぱいだったって言ってて。……もし、何か手伝えることがあれば、と思って。お屋敷の勤めには障らない時間で」
ミレイユは、すぐには答えなかった。
嬉しかった。月に一度しかない休みを、ここで使おうとしてくれている。けれど、その好意に甘えて、ただで働いてもらうわけにはいかない。かといって、人を雇う余裕は、あの晩の三枚の紙のどこにもなかった。
「では、今日の二時間だけ、お願いしてもいいですか」
ミレイユは言った。
「受注票の整理と、受け取り棚の札の確認です。それ以外はお願いしません。お礼は、二十銅貨。終わった時にお支払いします」
ポーラは目を瞬いた。
「お金は、いいです。直してもらったお礼に」
「お礼は、もう三十銅貨でいただきました。今日のは、ポーラさんの二時間の分です」
ポーラは少し考えてから、窓の外の陽の位置を確かめた。
「では、陽があの屋根にかかるまで。それで、二時間です」
ミレイユは空いている方の椅子を、ポーラの方へ引いた。
ポーラは受注票の束を、日付の順に並べ直すところから始めた。
一枚ずつ読み、受け取り棚の札と照らし合わせる。終わったものには小さく丸を付け、まだのものは脇に寄せた。字は丁寧で、印はどれも同じ大きさだった。
半刻ほどして、ポーラが一枚の紙を差し出した。
「これ、受け取りの日が、二つ書いてあります」
ジャンの受注票だった。受け取りの日の欄に、日付が二つ並んでいる。一つは仮合わせの日、もう一つは完成して渡す日。ミレイユが、同じ欄に続けて書き込んだものだった。
「どっちがどっちか、私には分かりませんでした。ジャンさんも、この控えを見たら、分からないかもしれません」
ミレイユは控えの写しを確かめた。同じように、日付が二つ、区別なく並んでいる。
自分には分かっていた。だから、分かると思っていた。
ミレイユは、欄を書き足そうとしてペンを止めた。受注票を全部書き直すには時間がかかる。今、混乱しているのは、この欄の二つの日付だ。
「仮合わせの日には、三角。受け取りの日には、丸。日付の前に、印を付けることにします」
ポーラは頷き、他の受注票にも同じ印を付けていった。ミレイユはジャンの受注票に大きく三角と丸を書き足し、日付をもう一度確かめた。仮合わせは三日後。リュシーの店に寄って、ジャンに伝えてもらうよう頼むことにした。
陽が向かいの屋根にかかった。ポーラが手を止める。ミレイユは二十銅貨を数えて渡し、売上の頁ではなく、支出の紙に「手伝い ポーラ様 二時間」と書いた。
帰り際、ポーラは棚の脇に置いた紙を指差した。
「あれは、何ですか」
「お店を紹介する時の紙です。お名前は書かずに、どんな場所を歩く靴を、どう直したか」
紙には、二つだけ書いてあった。半地下の階段を一日に何度も上り下りする仕事靴。踵と紐の付け根を直した。雨の日も配達をする花屋の仕事靴。新しく作った。
「最初のは、私ですね」
「載せてもいいですか。名前は出しません」
「……はい。階段の話なら、誰にでもあることですから」
ポーラは少し照れたように笑い、鈴を鳴らして出ていった。
二つ目の花屋のことは、ジャンの件で花店に寄った時に、リュシーにも断っておこう。ミレイユはそう決めて、紙を棚の脇に戻した。
翌朝、ミレイユはジャンの靴の仮の底を確かめていた。
鈴が鳴った。顔を上げると、戸口に背の高い男が立っていた。仕立てのよい濃紺の上着に、磨き込まれた靴。裏通りの店先には、どう見ても似合わない装いだった。
男は戸口で帽子を外し、胸の前に持った。朝の光を背に受けて、長い影が通路の床を奥まで伸びてくる。
「朝早くに失礼します。王室服飾調達局から参りました」
ミレイユは一瞬、自分の店を見回した。塗りの剥げた椅子、札の付いた古靴の並ぶ棚、床に落ちた革屑。どれも、この人の靴が踏むには不釣り合いに思えた。用件の見当は、まるでつかなかった。
ミレイユは手にしていた錐を置き、前掛けで手を拭った。それから、二脚の椅子の一つを引いた。
「どうぞ、お掛けください」




