第12話 宮廷には、地味すぎる
男は椅子に浅く腰を下ろし、帽子を膝に置いた。背筋は伸びているのに、作業台の上の道具には目をやらない。人の仕事の手を止めさせたと分かっている者の座り方だった。
「ユリウス・フェルナーと申します。王室服飾調達局で、発注の条件を整える仕事をしております」
フェルナー。ミレイユはその名を、兄の店で何度か聞いたことがあった。伯爵家の名だ。前掛けの紐を握った指に、力が入った。
宮廷から。この店に。
胸の奥で何かが跳ねかけたのを、ミレイユは自分で押さえた。
「先にお伝えしておきます。今日は、靴の注文に伺ったのではありません」
ユリウスは、懐から一枚の紙を出した。役所の登録簿の写しだった。『ひとあし工房』の名が、他の十数軒の工房の名と並んでいる。
「宮廷で働く女官の仕事靴を、少数だけ試しに作らせる話が出ています。どの工房に頼むかは、まだ決まっていません。登録のある工房を回って、参加の条件をお知らせしているところです。こちらで、九軒目になります」
九軒目。
ミレイユは、跳ねかけたものがすとんと元の場所に戻るのを感じた。選ばれたのではない。名前の並んだ紙の、九番目だっただけだ。
それでも、紙には自分の店の名があった。開店前の日に、役所の窓口で書いた名前だった。
「お話を、伺います」
ミレイユは自分の椅子を引き、ユリウスの向かいに座った。
「失礼ですが、こちらでは、どのようなお仕事を」
ユリウスの問いに、ミレイユは少し迷った。宮廷に納めた靴はない。開店してから、まだふた月も経っていない。父の工房の名を出せば、話は早いかもしれなかった。
ミレイユは、棚の脇から紹介の紙を取った。
「修理と、仕事靴の製作をしています。お名前は伏せますが、こういうお仕事の靴です」
紙の一件目を指す。半地下の階段を、一日に何度も上り下りする仕事靴。踵と紐の付け根を直した。
「この方は、夕方になると階段の下りで足が靴の中で滑っていました。踵が片側だけ減って、紐の付け根が伸びていたので、その二つを直しました。一度直したあと、お屋敷で一日履いて、気になった場所を教えてもらって、もう一度直しています」
「一日履いたあとに、ですか」
「店の床を歩いただけでは、分からないことがあるので」
ユリウスは紙から目を上げ、通路を見た。奥の壁まで、七歩。
ミレイユは受注票の束を取り、名前の欄を指で隠して何枚か見せた。爪先の縫い直し。底の穴。留め金。どの紙にも、修理の内容の前に、どこを歩く靴なのかが書いてある。
「もう一件、新しく作った仕事靴があります。ただ、その依頼人には、お見せしてよいかまだ伺っていないので、図面はお見せできません」
代わりに、ミレイユは端切れの入った箱を開けた。油を含ませた茶色の甲革の切れ端と、細かな刻みを試し彫りした底革の端。
「雨の日にも配達をする方の靴でした。濡れた石で滑りにくいように、底の一部だけに刻みを入れて、底と縫い目に蝋を染ませました。重くなりすぎないように、甲は軽い革にしています。その分、月に一度の手入れをお願いしました」
ユリウスは刻みの入った端切れを指先で裏返し、しばらく黙って見ていた。
それから、作業台の上の、仮の底の付いた靴に目を向けた。
「あちらは」
「別のお客様の仕事靴です。まだ仮合わせの前です」
ミレイユは靴を手に取り、依頼人の名が書かれた札を裏返してから見せた。
「重い荷を肩で運ぶ方なので、踵の芯を硬くして、底を厚くしています。甲は紐でしっかり留めます。荷物で足元が見えないので、途中で緩まないように」
話しているうちに、父の名を出そうと思っていたことを忘れていた。
ユリウスは靴を受け取り、縫い目と、踵の芯と、底の厚みを一つずつ確かめた。手つきは丁寧だった。素人の触り方ではない。
「丈夫なのは分かります。縫いも確かだ」
それから、靴をミレイユに返した。
「しかし、このままでは、宮廷の装いには地味すぎます」
地味、という言葉が、胸に小さく引っかかった。ミレイユは靴を胸の前で持ったまま、言葉を探した。
「女官の方は、一日中立っていらっしゃるのでは」
「立っています。式典の日は、朝から夜まで。廊下も長い」
「でしたら、まず歩けることが大事なのではありませんか」
ユリウスは、ミレイユが言い終えるのを待ってから頷いた。
「歩けることは、必要です。ただ、女官の装いは、その人一人のものではありません。同じ役目の者が同じように見えることで、誰がどの役目か、来客にも一目で分かる。そして、王家の場にふさわしい格を示す。靴も、その一部です。この靴を女官が履けば、一人だけ下働きの者に見えてしまう」
ミレイユは手の中の靴を見下ろした。厚い底。飾りのない甲。木箱を担ぐ人のための靴だ。
宮廷の靴は、見た目ばかりで歩けない。父の店で、何度もそう思ってきた。けれど、目の前の人が言っているのは、見栄の話ではなかった。役目の話だった。
「では、何が、必ず要るのでしょう」
ミレイユは尋ねた。
「色ですか。形ですか。踵の高さですか。どこまでが決まりで、どこからなら変えてもいいのか、知りたいです」
ユリウスは、わずかに目を見開いた。それから、膝の上の帽子に手を置いた。その上着の袖口に、ミレイユの目が留まった。
袖口の縁が、細かい目で繕ってある。上着と同じ色の糸で、丁寧に。仕立てのよい服を、新しく替えずに直して着ているのだ。誰が繕ったのかまでは、分からなかった。
「色と、爪先の形と、踵の高さには、それぞれ決まりがあります。ただ、全部が明文化されているわけではありません。慣習で決まっているものもある」
「慣習なら、変えられるかもしれませんか」
「変えられるかどうかを、私がここで言うことはできません」
ユリウスは、鞄から綴じた書類を取り出した。
「試験発注は、提案を募る形です。応じた工房の提案を比べて、少数の工房に試作を頼みます。試作した靴は、実際に女官に履いてもらい、評価します」
ミレイユは書類を受け取った。表紙に、提案の募集要項とある。
作業台の上の錐と革包丁の横に、その書類を置いた。並べてみると、ひどく場違いな気がした。けれど、どちらも仕事の道具だった。
「伺ってもいいですか」
「どうぞ」
ユリウスは膝の上で小さな手帳を開いた。
「履く方に、直接お話を伺うことはできますか。一日にどこを、どのくらい歩くのか。どこが辛いのか」
「……それは、要項にはありません」
ユリウスは少し考えた。
「求める工房があれば、上に諮ることはできます。できるとは、まだ言えません」
「材料の費用は、試作の段階では、どちらが」
「要項の三頁に書いてあります。ただ、試作の材料費は工房の持ち出しになる部分があります。そこは、読んでから判断してください」
「評価は、何を見るのですか」
「見た目と、仕上げと、期限を守るかどうか。それから、履いた者の感想も聞きます。比重は、まだ決まっていません」
ユリウスは、ミレイユの問いを一つずつ手帳に書き留めていた。答えられないものの横には、何か短い印を付けている。
ミレイユは書類の端を指で押さえた。問いが、次々に浮かんでくる。さっきまで身分の差に強張っていた指が、いつの間にか、聞くべきことを数えていた。
「細かいことは、要項を読んでから、改めて伺ってもいいですか」
「そうしてください。紙に書いて渡していただければ、答えられるものは書いて返します。答えられないものは、答えられないと書きます」
ユリウスは手帳を閉じた。閉じる前に、履く者への聞き取り、と書いた一行に、彼が小さく線を引いたのが見えた。
戸口まで送ると、裏通りには晩春の生ぬるい風が吹いていた。
ユリウスは帽子を手に持ったまま、振り返った。
「最後に一つ、伺っても」
「はい」
「あなたの店なら、どうしますか。女官の靴を」
ミレイユは、すぐには答えられなかった。宮廷の格式も、女官の一日も、まだ紙の上でしか知らない。簡単に作れるとは、とても言えなかった。
それでも、答えは一つしかなかった。
「では、宮廷にふさわしくて、一日立っていられる靴を考えましょう」
ユリウスは、何も言わずに一度だけ頷いた。
「連絡は、調達局の受付に、私の名で書面を。提案の締め切りは、要項の最後の頁にあります」
帽子をかぶり、彼は裏通りを表の方へ歩いていった。磨かれた靴の音が、石畳に一定の間隔で遠ざかっていく。
紙に書いて渡せば、答えが書いて返ってくる。答えられないことは、答えられないと。そう言った声を、ミレイユは少しのあいだ思い返していた。
店に戻ると、作業台の上に、募集要項が置いてあった。その隣に、ジャンの仮合わせ前の靴。受け取り棚には、修理を待つ靴が並び、それぞれに札が付いている。三角と、丸の印。
ミレイユは、明後日の仮合わせの日付を指でなぞった。宮廷の話がどうなっても、この札の約束は、一つも後回しにしない。
それから、白い紙を一枚取り、最初の線を引いた。




