第13話 条件は、紙に書いてください
その夜、ミレイユは灯りを寄せて、募集要項を最初の頁から読んだ。
求めているのは、宮廷の女官が勤めの日に履く、仕事用の礼装靴。提案は図と説明書きで出す。締め切りは、今日から十二日後。審査はその五日後。選ばれた工房は、試作品を一足作り、担当の女官に試し履きをしてもらう。
三頁目を開いた。
試作品一足の代金は、上限十八銀貨。検収の後に支払う。提案の図と見本にかかる費用は、選ばれても選ばれなくても、工房の負担。試作の途中の修正は一回まで代金に含み、二回目からは工房が持つ。
ミレイユは手帳の三枚の紙を思い出した。十八銀貨は、リュシーの靴の三倍だ。けれど、支払いは検収の後。それまでの材料は、全部自分の財布から出ていく。もし修正が二度、三度と重なれば、その分も。
ミレイユは、アニエスが書いてくれた紙を手帳から出した。入る日と出る日を、日付の順に並べた紙だ。宮廷の試作の材料をここに足すと、ひと月先の週が、目に見えて苦しくなる。
選ばれなければ、失うのは図を描く夜と、紙と、見本の端切れだけ。選ばれれば、十八銀貨の仕事と、それまでの持ち出し。どちらにしても、楽な道ではなかった。
それでも、紙の上の数字だけで決めたくはなかった。女官の一日を、自分はまだ何も知らない。知らないまま、引き返したくなかった。
最後の頁まで読んで、ミレイユは白い紙を引き寄せた。昼間に一本だけ線を引いた紙だった。その線の下に、分からないことを書いていく。
一つ。試し履きをする方に、作る前に話を聞くことはできるか。
二つ。色、爪先の形、踵の高さの決まりのうち、紙に書かれていないものは何か。
三つ。木型は、工房が用意するのか。
四つ。試し履きの評価は、誰が、いつ、どこで行うのか。
書き終えて、ミレイユは紙を見直した。昼間なら、もっと遠慮した書き方をしていたかもしれない。けれど、ここに書かなかったことは、あとで誰も答えてくれない。
翌朝、清書した紙を封に入れ、調達局の受付に、ユリウス・フェルナー様と宛名を書いて預けた。
二日後は、ジャンの仮合わせの日だった。
夕方、ジャンは木箱を一つ肩に担いだまま、店に入ってきた。
「中身は空です。重さは、いつもの半分くらい」
仮の底を留めた靴を履き、木箱を担いで通路を往復する。踵の芯が足を受け止め、紐は緩まなかった。ただ、ジャンは右の爪先を少し気にした。
「荷を下ろす時、ここで踏ん張るんです。そこだけ、少し窮屈で」
ミレイユは右の爪先に指を当て、捨て寸を指半分だけ足すことにした。ジャンは頷いた。
その帰りに、ミレイユはリュシーの花店に寄った。ジャンの仮合わせが済んだことを伝え、それから、紹介の紙と図面のことを尋ねた。
「名前を出さないなら、いいわよ。むしろ宣伝して」
リュシーは水桶の前で笑った。
「宮廷の人に見せるなら、刻みのところをよく見せてね。あれ、自慢なんだから」
ミレイユは、紹介の紙の二件目の横に、小さく丸を付けた。
調達局から返事が届いたのは、質問を預けてから四日目の昼だった。
届けに来たのは、局の使いの少年だった。封の中には、几帳面な字で書かれた紙が二枚。一枚目に、ミレイユの四つの問いが写してあり、その下に一つずつ答えがあった。
一つ目。試し履きをする女官との面談は、選ばれた工房に限り、作る前に一度だけ認める。日時と場所は、選ばれた工房に追って知らせる。
二つ目。色は黒か濃紺。爪先は丸みのある細身。踵の高さは指二本分まで。ここまでは規定に書いてある。書かれていないものとして、留め具を外から見せないこと、甲に何らかの飾りを入れること。どちらも慣習で、守らなかった例は記録にない。
三つ目。木型は工房の用意。
四つ目。評価は、試し履きの後、調達局の担当者と女官長が行う。日取りは、試作の進み具合で決める。比重は、まだ答えられない。
二枚目には、一行だけあった。
――面談の件は、上に諮ったうえで認められました。
ミレイユは、二つ目の答えを指でなぞった。甲に何らかの飾り。紙のどこにも書かれていない条件が、ここにはあった。聞かなければ、知らないまま図を描いていた。
飾り、とミレイユは口の中で繰り返した。歩くためには、何の役にも立たないものだ。けれど、守らなかった例がないということは、守らなければ外されるということでもある。
手帳の新しい頁に、ミレイユは一行書いた。
――書いていないことは、聞く。答えは、紙でもらう。
それから八日間、昼は店の仕事をし、夜は提案の図を描いた。
ジャンの靴は、爪先を直して本付けし、約束の日に渡した。木箱を担いで裏通りの端まで歩いたジャンは、戻ってくると、何も言わずに右の爪先で石畳を二度踏んだ。それが、彼の合格の印らしかった。四銀貨四十銅貨が売上の頁に入った。受け取り棚の修理も、三角と丸の印のとおりに片付けていった。
提案の図は、何枚描いても決まらなかった。黒の革。丸みのある細身の爪先。踵は指二本分。そこまでは描ける。けれど、その靴を履く人が、一日のうちにどこを、どれだけ歩くのか、ミレイユはまだ知らない。知らないまま、底の厚さや踵の芯の硬さを決めることはできなかった。
ミレイユは、図を一枚にとどめた。規定を満たす形の下書き。その横に、説明書きを添えた。
――靴の細部は、試し履きをする方のお話を伺ってから決めます。一日に立つ時間、歩く距離、床の種類、靴を脱ぎ履きする場面を伺い、その条件に合わせて底と踵の芯と留め方を定めます。
見本として、ジャンの靴で使った踵の芯の端と、リュシーの靴の刻みの端切れを添えた。
最後に、見積もりを書いた。十六銀貨。木型の用意、材料、試作と一回の修正を含む。細部が決まった後に、上限の内で確定する。
締め切りの前日、ミレイユは調達局の受付に包みを出した。
受付の机の上には、他の工房の提案が積まれていた。厚い革表紙の綴じ込み。色を付けた美しい図。銀糸の見本を縫い付けたものまである。自分の包みは、その中で一番薄かった。
見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。図の美しさでは、どれにも敵わない。細部を決めない提案など、怠けていると思われるかもしれない。
けれど、知らないことを知っているように描くよりは、ましだと思った。
ミレイユは受け取りの紙を持って、局の廊下を歩いた。床は磨かれた石で、長かった。この廊下を、一日に何度往復するのだろう。
審査の結果は、使いの少年が持ってきた。
選ばれた工房は三つ。そのうちの一つに、ひとあし工房の名があった。
翌日、ミレイユは調達局の小さな部屋で、契約の紙に向かい合った。机の向こうには、ユリウスが座っていた。
「試作品一足。代金は、そちらの見積もりの十六銀貨。上限は十八銀貨で、細部が決まった後に確定します。検収の後に支払います。修正は一回まで代金に含む。提案費は、工房の負担。ここまでは、要項と提案のとおりです」
ユリウスは紙を一行ずつ指で示しながら読んだ。ミレイユも、同じ行を目で追った。
「他の工房の評価は、お伝えできません。あなたの工房が選ばれた理由も、私の口からは申し上げられない」
「はい」
「面談のことも、私が決めたのではありません。上が決めました。私は、あなたの問いを上に回しただけです」
ユリウスは淡々と言った。恩を着せる響きは、どこにもなかった。
「担当の女官との面談は、この日に。宮廷の東棟の控えの間で」
ユリウスは日付を告げた。それから、少しだけ言い添えた。
「面談の時間は、半刻です。それ以上は、女官の勤めに障ります」
ミレイユは、契約の紙を見た。面談の日付はある。けれど、半刻という時間は、どこにも書いていなかった。
「その時間も、紙に書いていただけますか」
ユリウスは一瞬、手を止めた。それから、契約の紙の余白に、自分の字で書き加えた。――面談は半刻とする。
「ほかに、書いていないことは」
ミレイユが尋ねると、ユリウスは紙を見下ろしたまま、少し考えた。
「……女官は、その日の朝も夕方も勤めがあります。半刻の間に、足を測り、話を聞き、立ち姿を見る。全部は、難しいかもしれない」
「それも、書いていただけますか」
ユリウスは、かすかに目元を緩めたように見えた。けれど、何も言わずにもう一行、余白に書き足した。
ミレイユは署名をした。
部屋を出ると、長い石の廊下を、紺の服の女性が二人、足早に通り過ぎていった。盆を捧げ持ち、背筋を伸ばし、裾をほとんど揺らさずに。黒い靴の踵が、規則正しく石を打つ。二人とも、足元を一度も見なかった。
あの人たちのうちの誰かが、自分の靴を履くのかもしれない。ミレイユは、遠ざかる足音が角を曲がるまで、廊下の端に立っていた。
帰り道、契約の紙を何度も確かめた。半刻。足を測り、話を聞き、立ち姿を見る。
一日中立っている人の話を、たった半刻で。




