第14話 女官の一日は、長い
面談の二日前、ミレイユは帽子店の戸を叩き、小さな袋をアニエスに渡した。
「次のひと月分です」
アニエスは銀貨を数え、受け取りを書いた。期日までは、まだ八日あった。
「宮廷の仕事、決まったんですってね。浮かれて家賃を忘れる人もいるのよ」
「忘れたら、相談します。黙る前に」
アニエスは小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。
店に戻ると、ミレイユは受け取りを手帳の栞の頁に挟み、契約書を広げた。余白に、ユリウスの字が二行ある。面談は半刻とする。半刻の間に足を測り、話を聞き、立ち姿を見る。全部は、難しいかもしれない。
全部が無理なら、順番を決めるしかない。
ミレイユは採寸の紙を前もって作った。足の輪郭を写す欄、寸法の欄、その下に聞くことの順番を書く。足。一日の流れ。歩く床。靴を脱ぎ履きする場面。最後に、立ち姿。
道具箱に巻き尺と採寸の紙を入れ、蓋を閉めた。
宮廷東棟の控えの間は、思っていたより狭かった。
ここへ来るまでに、門で一度、東棟の入口で一度、名前と用件を確かめられた。案内の係の後ろを歩きながら、ミレイユは道具箱の取っ手を握り直していた。前掛けは外してきたが、指先に染みた革の色は落ちていない。
高い窓が一つ。壁際に長椅子と、背の高い鏡。床は磨いた木で、足音がよく響く。扉の外には調達局の係が一人立ち、砂時計を手にしていた。
約束の時刻ちょうどに、扉が開いた。
「エステルと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
紺の礼装に、白い襟。髪はきっちりとまとめられている。年はミレイユと同じくらいか、少し上に見えた。
エステルは自分から長椅子に腰を下ろし、裾を膝の上で手早く整えると、靴を脱いだ。迷いのない手つきだった。一日に何度も、こうして靴を替えているのだろう。
「お測りになるのでしょう。どうぞ」
「失礼します。両方とも、測らせてください」
ミレイユは膝をついた。宮廷の床に膝をつくのは初めてだった。磨いた木は冷たく、少し滑った。足を紙に載せてもらい、輪郭をなぞった。踵は細い。指の付け根には、長く立つ人に特有の硬いたこがある。甲の高さは、ごく普通だった。左右の差は、指の幅の半分ほど。
次に、今履いている靴を見せてもらった。黒い革の、爪先の細い靴。甲には小さな銀の飾りが付いている。内側を指でなぞると、小指の付け根の革が擦れて光っていた。踵の外側も、斜めに減っている。
「この靴は、いつから」
「一年ほど前からです。勤め始めた時に支給されたものは、半年で駄目になりました」
「この飾りは、皆さん同じものですか」
「はい。銀の小さな花です。工房によって、少しずつ形は違いますけれど」
ミレイユは飾りには指を触れず、靴を返した。
扉の外で、砂がさらさらと落ちる音がした気がした。
ミレイユは寸法を書き終え、紙をめくった。次は、一日の流れだ。
「朝は、何時頃から」
「夜明けの鐘で起きて、まず支度をします。それから謁見の間の脇に控えて、来客の案内をします」
エステルは、勤めの一日を順に話した。謁見の間の脇での立ち番は、長い日には午前の間ずっと続く。来客を案内して長い廊下を往復し、控えの間に戻り、また立つ。式典の日は、午後に装いを替えるため、控室で二度着替える。夕方には片付けがあり、それが終われば、ようやく座れる。
「夕方になると、足の裏が熱くなります。立っている時より、歩き始めた時の方が辛くて」
「踵は、どうですか」
「外へ流れる感じがします。だから、立ち番の時は、少しだけ内側に体重をかけるようにしています。誰にも分からないように」
ミレイユは頷き、紙に書いた。足の裏が熱い。踵が外へ流れる。内側に体重を逃がす。
エステルは、少し間を置いてから言った。
「それと……靴のことで、もう一つ。同じ列に並んだ時、皆の靴の線が揃って見えるのが、好きなんです。私だけ違って見えるのは、困ります」
「列の、揃い方ですね」
ミレイユは紙の端に、小さく書き留めた。同じ列の皆と、揃って見えるのが好き。
それから、すぐに顔を上げた。
「立ち番は、何刻ほど続きますか。途中で座れる時間は」
エステルは一瞬だけ口を閉じ、それから立ち番の時間を答えた。座れるのは、来客が途切れた時に、ほんの少し。
ミレイユは数字を書いた。夕方の熱、踵の流れ、立ち番の長さ。足を楽にするための手がかりが、紙の上に増えていく。
扉が二度、軽く叩かれた。
「時間です」
係の声だった。立ち姿は、まだ見ていない。
エステルは靴を履き直し、裾を整えて立ち上がった。扉へ向かいかけて、振り返る。
「どんな靴に、なるのでしょう」
「夕方まで、足の裏が熱くならないように。踵が外へ流れないように、作ります」
ミレイユは迷わず答えた。エステルは「そうですか」とだけ言い、少しだけ首を傾けた。何か言い足したそうに見えたが、扉の外で係が待っていた。
「お役に立てましたら、幸いです」
丁寧に一礼して、彼女は勤めへ戻っていった。足音は、廊下の向こうへ規則正しく遠ざかった。
午後、ミレイユは調達局の小部屋でユリウスと落ち合った。
面談とは別に、女官が使う廊下の一部を歩くことが、書面で許されていた。付き添いは調達局の者に限る、という条件つきだった。
「許可が出ているのは、東棟の控えの間から謁見の間の脇まで。それと、控室へ下りる階段です」
ユリウスは先に立って歩いた。
ミレイユは歩数を数えた。自分の靴の踵が、石を打つ音がやけに大きく響く。ユリウスの足音は、それより低く、揃っていた。控えの間を出て、磨いた石の廊下を謁見の間の脇まで。曲がり角で一度、紙に数字を書く。石の床は硬く、靴底を通して冷たさが足に上がってくる。謁見の間の手前だけ、細長い絨毯が敷いてあった。
「絨毯は、ここだけですか」
「来客の通る場所だけです。女官は、その脇の石の上を歩きます」
控室へ下りる階段は木だった。段は狭く、少し急だった。ミレイユは段の数を数え、踏み面の幅を指で測った。
階段の下まで来ると、その先に扉があった。ユリウスは扉の前で足を止めた。
「ここから先は、許可がありません」
「控室の中は、見られないのですね」
「申し訳ありませんが」
ミレイユは扉を見た。エステルが一日に二度、着替える部屋。その中の床が石なのか、木なのか、絨毯なのか、分からないままだ。
「この廊下を、一日に何度往復するのでしょう」
ユリウスは手帳を開いた。
「来客の記録から数えた回数なら、分かります。式典のない日で、謁見の間との間をおよそ二十往復。式典の日は、その倍ほどです。実際に歩いた回数は、記録にありません」
推測は言わなかった。ミレイユはその数字をそのまま書いた。二十往復。式典の日は四十。
「石の床は、毎朝磨くのですか」
「そう聞いています。磨いた直後は、滑りやすいとも」
ユリウスは、聞いている、と言った。自分で確かめたことと、人から聞いたことを、言葉の上で分けている。ミレイユは、滑りやすい、の横に、朝、と書き足した。
帰りの廊下で、紺の服の女官が二人、盆を持ってすれ違った。黒い靴の線が、並んで揃って見えた。ミレイユはその足元を、踵の減り方を見るように見た。
宮廷は、華やかな場所である前に、長い仕事場だった。
その夜、ミレイユは作業台に紙を二枚並べた。
一枚は、規定と慣習を満たす靴の図。黒い革。丸みのある細身の爪先。踵は指二本分まで。留め具は外に見せず、甲に飾り。
もう一枚は、今日聞いたことから描いた図。夕方の熱を逃がす底の厚み。外へ流れる踵を受け止める芯。二十往復、四十往復の石の廊下。狭く急な木の階段。
二枚を重ねてみた。爪先の線が合わない。細身の爪先では、たこのある指の付け根が窮屈になる。踵の芯を硬くすれば、甲の線が重く見える。底を厚くすれば、裾から覗く足元が太くなる。
どこを動かしても、もう一枚の線がずれる。
規定を守れば、エステルの足が夕方に辛い。足を守れば、規定の線から外れる。どちらかを選ぶしかないのだろうか。それとも、まだ見えていない線があるのだろうか。
採寸の紙の束は、作業台の端に重ねてあった。紙の隅に小さく書いた一行は、その束の一番下にあった。
ミレイユは灯りを寄せ、ずれたままの二枚の線を、いつまでも見比べていた。




