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王都の靴職人は、シンデレラを帰らせたい  作者: 南野遥


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第30話 格式の内側に余地はある

 

 仮合わせの翌日、ミレイユはクラリスに短い書状を書いた。

 舞踏会の靴に、守らなければならない決まりがあるのかどうか。自分はそれを知らない。知らないまま、細いのがいいとか、高いのがいいとかを決めるわけにはいかない。調達局に尋ねれば、一般の決まりなら教えてもらえるかもしれない。ただ、それには舞踏会がどこで開かれるのかを書く必要がある。お名前は出さない。照会してもよいか。

 返書は、その日の夕方に侍女が届けに来た。


 ――舞踏会は、王宮の広間で開かれる夏の舞踏会です。名前を出さないのでしたら、どうぞ。

 短い字の下に、もう一行あった。

 ――母には、私から話しておきます。

 字は、前に相談の日を知らせてきた手紙の字より、少しだけ強く書かれていた。

 ミレイユは白い紙を広げ、照会の文を書き始めた。


 はじめは、思いつくまま書いた。伯爵家の令嬢が、王宮の夏の舞踏会に出席するにあたり、その靴について。そこまで書いて、ペンを止めた。伯爵家。令嬢。二十歳。薄い青の絹。王都に伯爵家がいくつあるのか、ミレイユは知らない。けれど、言葉を重ねるほど、誰のことかに近づいていく。

 ミレイユは一行ずつ消した。伯爵家、を消す。年齢、を消す。衣装の色、を消す。最後に残ったのは、一行だけだった。


 ――王宮の舞踏会に出席する令嬢の靴について、守るべき規定があれば、お教えください。

 書き終えた紙を灯りにかざして、もう一度読んだ。誰の靴なのか、この一行からは分からない。分からなくていい。知りたいのは決まりであって、クラリスのことを誰かに知らせる必要はなかった。


 翌朝、その紙を調達局の受付に預けた。

 昼前には、取り寄せていた鹿革と補強の帯が、材料商から届いた。ミレイユはニナの前金の残りで払い、足りない分を自分の財布から足した。仕入れの頁に書く。差額は店の負担、とすでに書いてある行の下に。

 その翌日は、家賃の期日の始まりの日だった。帽子店へ十二枚を持っていくと、アニエスは数えて帳面に記し、それから、銀貨ではなくミレイユの顔を見た。


「最近、夜の灯りが遅いわね」


 それだけ言って、アニエスは帽子の型紙に戻った。

 店に戻り、手帳の栞を挟んだ家賃の頁に、支払いを書いた。


 調達局から呼び出しの書面が来たのは、照会を出して二日後だった。

 王宮の門で名前を告げ、係に案内されて長い廊下を歩く。宮廷の靴の仕事が終わってから、ここへ来るのは初めてだった。廊下の石の冷たさは、前と同じだった。

 小部屋には、ユリウスが一人で座っていた。机の上に、ミレイユの照会の紙と、別の紙が一枚置いてある。


「照会を拝見しました。先にお伝えしておきます。同じことを尋ねる工房があれば、どの工房にも、今日お話しするのと同じ内容を書面でお返しします。この店にだけ、特別なことは言えません」

「はい。そのつもりで伺いました」


 ユリウスは頷き、別の紙を手に取った。


「舞踏会の出席者の装いについては、典礼の係が扱っています。そちらに確かめました。靴について、色や形を定めた明文の規定は、ありません」


 ミレイユは、思わず瞬きをした。


「ない、のですか」


 ユリウスは紙に目を落とし、読み上げた。


「ありません。決まりとして書かれているのは、三つだけです。一つ目。衣装と調和すること。二つ目。広間の床を傷める金具や鋲を付けないこと。三つ目。舞踏の列を乱さないこと。三つ目は、靴というより、踊る人の振る舞いの決まりですが、靴が原因で列を乱すことも含まれます」

「細い爪先や、高い踵は」

「今年の流行です。規定ではありません。流行に合わせるかどうかは、履く方と、その方の家が決めることです」


 ミレイユは、手帳に三つを書いた。調和。床を傷めない。列を乱さない。

 それから、もう一度読み返した。細くなくてもいい。高くなくてもいい。ただ、衣装と調和し、床を傷めず、列を乱さなければ。

 格式という言葉を、ミレイユはずっと、細いことや高いことと同じものだと思っていた。どこかに決まりが書いてあって、それに合わせなければ王宮には入れないのだと。

「では、外から見える形を保ったまま、中の作りを変えることは」


 ユリウスは、少し言葉を選んだ。


「それは、規定の外の話です。例えば、裾に隠れる側の留め帯は、見えなくても構いません。衣装と調和していれば、見えないところがどうなっているかは、問われません。底の滑り止めも、床を傷めない限り、問題にはならないはずです」


 ミレイユは鞄から紙を一枚出した。昨夜、ニナの鹿革を裁つ合間に描いた略図だった。底の前の半分は滑らかなまま、回りやすく。後ろの半分と土踏まずには、取り寄せの底革を当てて、細かな刻みを入れる。階段で止まるように。


「こういう作りを考えています。金具は使いません。刻みは、革に入れるだけです」


 ユリウスは略図を手に取り、しばらく見ていた。


「床を傷めないかどうかは、私には判断できません。典礼の係に、書面で確かめておきます。この図を、お預かりしても」

「お願いします」


 ユリウスは略図を照会の紙と重ねた。それから、三つの決まりを書いた紙の写しを、ミレイユに渡した。

 紙を受け取る時、ミレイユはユリウスの手元を見た。照会の紙には、受付の印と、典礼の係の印が、並んで押されていた。一つの問いに答えるために、彼は廊下を二つ渡ったのだろう。

 受け取った控えの、二つ目の行。金具や鋲を付けないこと。ミレイユは、その行の頭に、小さく丸を付けた。


 小部屋を出ると、長い廊下には昼の光が斜めに差していた。ユリウスは、受付の方まで一緒に歩いた。

 しばらく黙って歩いてから、ユリウスが口を開いた。


「規定は、読めば分かります。書いてあるので。目的を聞けば、どこまでが決まりで、どこからが流行かも分かる。家の期待は、そうはいきません。どこにも書いていない」


 ミレイユは、隣を見た。ユリウスは前を向いたままだった。


「家の、期待ですか」

「家から、縁談の話を何度か持ち込まれています。そのたびに、今は仕事が、と言って先に延ばしている。深く考えたことは、正直、ありません。それが、相手の方にも、家にも、誠実でないことは分かっています」


 珍しいことだった。ユリウスが、仕事の外のことを自分から話すのは。好きな色を尋ねた時、この人は、まだ答えられないと言った。服の色は家の者が決める、とも。その話の続きを、今、聞いているような気がした。

 ミレイユは、ふと思った。この人は、照会の令嬢が誰なのか、察しているのかもしれない。王宮の夏の舞踏会。伯爵家の人間なら、出席者の顔ぶれくらいは知っているだろう。

 けれど、クラリスのことは、一言も言わなかった。縁談のことも、怖いと言った声も。それは、クラリスが店の椅子の上で、靴屋にだけ置いていった言葉だった。

 代わりに、ミレイユは自分のことを話した。


「父の工房では、作る場所を、自分で決められませんでした。兄が決めて、私は接客と飾りの台に座っていました。それが嫌で、店を出たんです。だから、何かを決める時は、自分で決めたいんです。間違っても、自分で」


 廊下の先に、受付の机が見えてきた。

 ユリウスは、少しだけ歩みを緩めた。


「それは、規定では、決められないことですね」 


 それきり、二人とも何も言わなかった。受付の前で、ユリウスは一礼して小部屋の方へ戻っていった。

 門を出て、ミレイユは控えの紙を鞄の中で一度確かめた。三つの決まりの写し。丸を付けた二つ目の行。紙の上のことは、全部持って帰れる。廊下で聞いたことは、どこにも書かなかった。書かなくても、たぶん忘れないと思った。


 翌日の昼、クラリスの侍女が、薄い包みを一つ届けに来た。

 ミレイユは包みを開いた。中には、一枚の紙が入っていた。細い線で丁寧に描かれた、植物の図。図譜の一枚を、写したもののようだった。茎の伸び方、葉の付き方、花弁の数。余白に、小さな字で名前が書いてある。

 添え書きがあった。


 ――飾りに、これを使っていただけますか。

 描かれていたのは、薄紫の、小さな花だった。

 クラリスの手帳に挟まっていた、あの押し花と同じ形をしていた。

 ミレイユは図を作業台に置き、絹の見本の切れ端を隣に並べた。朝の空のような薄い青の横で、薄紫の花弁が、小さく開いていた。

 

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