第29話 お母様の望むかたち
朝のうちに手当てを終えた稽古靴を劇場へ届け、ミレイユは昼前に店へ戻った。
作業台を拭き、通路の床を掃き、三脚の椅子を並べ直す。クラリスの試作は、布をかけて作業台の端に置いた。仮の底を留めた一足。踵は指一本半。内側に、細い帯が一本。
昼過ぎ、表通りの方から馬車の音がして、止まった。
最初に入ってきたのは侍女だった。続いてクラリス。その後ろから、背の高い女性が、裾を少し持ち上げて敷居をまたいだ。
濃い紫の外出着に、真珠の留め具。手には、閉じた扇を持っていた。クラリスと同じ形の目をしていた。女性は店の中を一度ぐるりと見回し、作業台、木型の棚、受け取り棚の札の上で、順に目を止めた。
「娘がお世話になっております」
「ミレイユ・ロランです。お越しいただき、ありがとうございます」
伯爵夫人は、二脚の接客の椅子の一つに腰を下ろした。クラリスがもう一つに座る。侍女は戸口の脇に立った。ミレイユが運んでおいた三脚目の椅子には、誰も座らなかった。
ミレイユは試作の布を取り、クラリスの前に揃えた。クラリスが足を入れ、ミレイユは踵の収まりと、内側の帯の位置を確かめる。
夫人は、作業台の上に広げた図を見ていた。
「爪先は、もう少し細くできませんの」
「爪先、ですか」
「ええ。それから、踵も。今年は皆さん、もっと高い踵でいらっしゃいます。甲には、宝石の留め具をひとつ。舞踏会では、どなたにお会いするか分かりませんもの」
声は穏やかだった。命じるような響きはない。けれど、言葉に迷いもなかった。
クラリスは、試作を履いたまま、膝の上で両手を重ねていた。何も言わない。母の方も、ミレイユの方も見ず、自分の膝のあたりを見ている。
ミレイユは、夫人の言葉を頭の中で並べ直した。細く。高く。華やかに。どなたにお会いするか分からない場で、娘が見劣りしないように。その言葉の端に、娘に恥ずかしい思いをさせたくない、という気持ちが聞こえた気がした。
どう答えればいいのか、ミレイユはすぐには分からなかった。言われたとおりに作れば、夫人は満足するかもしれない。断れば、店の外へ出ていく注文かもしれない。けれど、ここで決めるのは、自分でも夫人でもないはずだった。
同時に、ミレイユの目は、クラリスの足元にあった。
仮の底の試作の中で、クラリスの指が縮んでいた。革の上からでも分かる。爪先の方が、わずかに浮き上がっている。
ミレイユは図を夫人の方へ向けた。クラリスにも見えるように、作業台の端へ寄せる。指で、裾の線と爪先の線が重なるところを示した。
「図を、ご覧いただけますか。爪先の線は、ドレスの裾から覗く長さに合わせて引いています。裾が床に少し触れる長さだと伺いました。歩くたびに、爪先がこのくらい見え隠れします。踵は、指一本半です。広間の床は、よく磨いた木だと伺いました。踊るのは始まりから夜半過ぎまで、その半分ほど。それより高い踵だと、夜半を過ぎた頃に、足首が先に疲れます」
夫人は図に目を落とし、黙って聞いていた。それから、扇を閉じたまま、図の爪先の線を軽く指した。
「でも、細い方が、足は小さく、美しく見えますでしょう。私の若い頃も、皆そうでしたわ。少しくらい痛くても、あの夜だけのことですもの」
責める調子ではなかった。自分が通ってきた夜を、そのまま娘に渡そうとしているようにも聞こえた。ミレイユは、父の店の鏡の前を思い出しかけて、その記憶を脇へ置いた。目の前の人は、あの夫人ではない。
「細い爪先も、高い踵も、作ることはできます。ただ、どの形がよいかを決めるのは、履かれるご本人です。歩いて、確かめていただいてから、決めさせてください」
夫人は、少しだけ眉を上げた。それから、娘の方を見た。
「歩いてごらんなさい」
クラリスは立ち上がり、七歩の通路を奥まで歩いた。振り返って、戻ってくる。仮の底でも、爪先から静かに下ろす歩き方は変わらなかった。四歩目のあたりで、床板が低く鳴った。
「裏の段も、お願いできますか。ゆっくりで構いません」
クラリスは店の裏の戸を開け、外の段を二段、下りた。ミレイユは段の下に立ち、踵を見ていた。
一段目。二段目。下りる時、右の踵が靴の中で、わずかに浮いた。上がる時には浮かない。下りの時だけだ。ミレイユは手帳に書いた。右、下り、踵、わずかに浮く。
クラリスが段を上がって戻ってくるまで、夫人は戸口の方から、娘の歩く姿を見ていた。
「……昔から、あの子は音を立てずに歩くの」
誰に言うでもない声だった。
「はい。爪先から静かに下ろす、きれいな歩き方です。この靴は、その歩き方のまま、踵が離れないように作るつもりです。今は下りで少しだけ浮くので、次までに直します」
夫人は答えなかった。娘の足元を、もう一度だけ見た。
しばらくして、夫人は立ち上がった。
「近くの仕立て屋に、用事がありますの。先に済ませてまいります。仮合わせは、あなたに任せますわ、クラリス」
侍女が夫人の後に従った。戸口で、侍女は一度だけクラリスの方を振り返り、それから扉を閉めた。馬車は、表で待っているという。
店の中が、急に静かになった。天井が、ほんの少し低くなったような気がした。
ミレイユは、クラリスの前に膝をついた。
「爪先の細さは、どうしましょう」
形のことだけを聞いた。それ以外のことは、聞かなかった。
クラリスは、しばらく答えなかった。膝の上で、手をほどいては、また重ねる。それから、試作の爪先を見下ろしたまま、話し始めた。
「舞踏会で、お会いする方がいるんです」
「……はい」
ミレイユは、手を膝の上に置いて待った。
「家同士で、話が進んでいて。母も、父も、良いお話だと言います。私も、そう思います。お会いしたことはないけれど、悪い方だとは聞いていません。……結婚が、嫌なわけではないんです。いつかは、と思っていました。でも、まだ会ったこともない方との答えが、会う前から決まっているのが、怖いんです。舞踏会で踊って、お話をして、それで、はいと言うことになっている。私が何を思っても。その後は、図譜の勉強は続けられないと聞いています。お屋敷のことで、忙しくなるからと」
クラリスは、言葉を一つずつ置くように話した。ミレイユは、何も言わなかった。言えることは、何もなかった。
クラリスは、膝の上の手帳に、そっと指を置いた。押し花が挟まっている手帳だった。
ミレイユは頷いた。それ以上は、聞かなかった。誰と会うのか。どんな人なのか。断ることはできないのか。浮かんだ問いを、一つずつ胸の中で下ろした。聞けば、クラリスはもっと話すかもしれない。けれど、それは靴屋が引き出していい話ではなかった。
「話してくださって、ありがとうございます」
少しして、クラリスが顔を上げた。
「爪先は、母の言うとおり、少しだけ細くしてください。母の言うことにも、一つは頷きたいんです。母は、私が恥ずかしい思いをしないように、と思っているので。それは、分かっているんです」
「では、裾から覗いた時に、細く見える線にします。指の付け根は、今の幅を残します」
「踵は、このままで。指一本半」
「はい」
「宝石の留め具は、要りません」
ミレイユは、受注票の外見の欄に書き足した。爪先、少し細く。本人の希望。踵、指一本半のまま。宝石の留め具、なし。
「飾りは、どうされますか」
「……次までに、考えさせてください」
ミレイユは、それも書いた。それから、右の踵が下りで浮いたことを伝え、二回目までに直すと約束した。
ミレイユはもう一度、試作の右の踵に指を入れた。下りの時だけ浮く。踵の包みの後ろを、もう少し深く。内側の帯を引く角度を、わずかに上へ。手帳に書きながら、その手が、さっきの話を書き留めないように気をつけた。
クラリスは試作を脱ぎ、自分の靴を履き直した。戸口まで送ると、表通りに、馬車が待っているのが見えた。
クラリスは敷居の上で、一度立ち止まった。振り返らずに、言った。
「会ってみたい。でも、帰りたいと思ったら、帰りたいんです」




