第28話 延期をお願いする日
材料商の戸口は、閉める間際だった。
ミレイユは伸びた山羊革の試し片を見せ、柔らかくて、三週間あまり毎日蹴られても伸びきらない革はないかと尋ねた。材料商は試し片を指で引っ張り、楕円になった縫い穴を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「薄い鹿革だね。山羊ほど柔らかくはないが、伸びて戻る。それでも心配なら、前の方に細い帯を一本、内側から当てておくといい。取り寄せで四日」
ミレイユは、その場で注文した。受け取りの紙に、四日後の日付が書かれた。代金は届いた時に払うことにした。ニナの前金の残りで足りない分は、店の財布から出す。
その夜、ミレイユは灯りを作業台に寄せ、白い紙に数字を並べた。
鹿革と補強の帯。山羊革との差額は、およそ八十銅貨。ニナの代金は、七銀貨と決めてある。素材を変えたのは、最初の試作を自分の思い込みで作り、予定の革で足りるかを確かめなかったからだ。差額はニナに求めない。店が持つ。紙の端に、そう書いた。仕入れの頁の、ニナの欄にも、差額は店の負担と書き添えた。
次に、日数。
革が届くのは四日後。それから新しい試作を作るのに三日。段階試験で確かめ直すのに二日。指を折って数えると、ニナの一回目の仮合わせは、早くて六日遅れる。二回目はその五日後。受け渡しは、元の約束の日のまま守れる。本番まで、そこからまだ四日ある。
ミレイユは、ペンを止めた。
今夜から休まずに作れば、四日後の仮合わせに、何かは出せるかもしれない。手元にある山羊革で、踵を深く包み、甲の縫い目を外へ逃がした一足を。仮合わせの日には間に合う。ニナにも、遅れると言わずに済む。
けれど、その一足は、三週間の稽古を保たない。保たないと分かっている靴を、間に合わせのために履かせて、本番の前にまた壊れる。その時に慌てるのは、ニナだ。
ミレイユは、その案を紙の上に書き、上から一本、線を引いて消した。
壁の工程表を外して、作業台に広げた。仮合わせと、受け渡し。その二つの欄しかない。ミレイユは表の右に紙を一枚継ぎ足し、新しい欄を二つ書き加えた。試験。待ち。
革を待つ四日。試作を作る三日。試す二日。それぞれを、二つの欄に書き込んでいく。書き足した分だけ、表の幅が広がった。
広がった表を見て、ミレイユは、最初の表がどうしてあんなにきれいだったのかが分かった。仮合わせと受け渡しのあいだには、何もないように見えていた。本当は、そこに一番長い時間が入っていた。
ペンを置くと、夜はもう深かった。明日の朝、ニナが稽古場に入る前に話さなければならない。遅れると分かっているなら、一日でも早く言う方がいい。ニナには、衣装合わせの予定があるはずだった。
翌朝、稽古が始まる前に、ミレイユは劇場の裏口でニナを待った。
ニナは、仲間と話しながら階段を上がってきて、ミレイユを見つけると足を止めた。
「おはようございます。仮合わせは、まだ先ですよね」
「そのことで、お話があって来ました。少しだけ、時間をください」
「……はい」
ニナは仲間に先に行くよう手で合図し、階段の端に寄った。ミレイユは、昨夜の紙を差し出した。新しい工程表と、伸びた試し片を写した図。それから、紙の上の日付を指で示しながら話した。
「予定していた山羊革では、本番まで保たないと分かりました。二日の稽古で、前足の付け根が伸びきって、縫い目の際が裂けかけています。素材を、薄い鹿革に変えます。革が届くまで四日かかります。それで、一回目の仮合わせを六日遅らせて、この日にさせてください。二回目は、この日。受け渡しは、元の約束の日のままです」
ほかにも、言いたいことはあった。最初の試作でゆるく作ったのは、擦れを減らしたかったからだとか、素材の違いは試してみなければ分からなかったのだとか。けれど、それはニナが準備をするための情報ではなかった。ミレイユは口を閉じて、待った。
ニナは紙を受け取り、黙って読んだ。一行ずつ、指でなぞっていく。唇が小さく動いて、日付を数えているのが分かった。衣装合わせの日、通し稽古の日。ミレイユの知らない予定が、ニナの頭の中に並んでいるのだろう。
階段の上から、誰かがニナの名を呼んだ。ニナは、すぐ行く、と返事をして、紙から目を離さなかった。
「本番には、間に合うんですね」
「間に合わせます。ただ、この先、何かあれば、その時もすぐに言います。今日みたいに」
ニナは、しばらく紙を見ていた。
「仮合わせが遅れる間、稽古は今の古い靴でやることになります。あれ、もう爪先が」
ミレイユは、ニナの布袋を指した。
「そのことも、お願いがあります。今お使いの稽古靴を、一晩だけ預からせてください。爪先の硬い縫い目を外から薄い革で覆って、踵の内側のよれを押さえます。新しい靴ができるまで、稽古を続けられるように。お代はいただきません。遅れるのは、私の側の都合なので」
ニナは少し考えてから、頷いた。
「受け渡しの日は、絶対に遅らせないでください。衣装合わせで、靴を履いたまま動きを合わせるので」
「はい。それより後には、しません」
ニナは布袋から古い稽古靴を出し、ミレイユに渡した。今日の稽古は、舞台用のもう一足で踊るという。それから、思い出したように言った。
「前の店は、遅れるって、最後の日まで言わなかったんです。前の日の夕方に行ったら、まだできてないって」
ミレイユは、何と答えればいいか分からなかった。だから、受け取った靴を両手で持ち直した。
「明日の朝、ここへ持ってきます」
「お願いします」
ニナは階段を上がっていった。稽古場から、手を打つ音が聞こえ始めた。
預かった古い稽古靴は、柔らかく、汗を吸って、思ったより重かった。待たせることにも、仕事が要る。
店に戻ると、ミレイユは古い稽古靴を作業台に置き、まず工程表を見直した。
ニナの日程を動かしても、クラリスの仮合わせは明日のまま。二回目も、受け渡しも、一日も動かさずに済む。
ただ、ニナの二回目の仮合わせとクラリスの二回目が、一日違いで続いている。ニナの受け渡しとクラリスの受け渡しも、一日違いで並ぶ。その前後は、どちらの手も離せない。
ミレイユは受け取り棚の札を一枚ずつ外して、日付を確かめた。仮合わせが続く二日と、受け渡しが続く二日。その四日にかかる修理の札が三枚あった。二枚は前の日に繰り上げて仕上げられる。一枚は、受付の時に約束した日付を変えずに済むよう、手の空く日に先に手をつけておく。それから、その四日は新しい修理の受け取りを少なめにする、と手帳に書いた。断るのではない。受け取る時に、仕上がりの日を正直に伝える。
クラリスの方には、今朝、劇場へ向かう前に、近所の子に駄賃を渡して、明日の仮合わせを予定どおり行うと短い書状を届けてもらっていた。ニナの日程を動かしたことで、クラリスの方を黙って後ろへ回していないか。それを自分で確かめるための書状でもあった。
夕方、古い稽古靴の爪先に当てる薄い革を裁っていると、戸口の鈴が鳴った。
クラリスの侍女だった。前と同じ、控えめな服に、手袋をしている。
「書状を拝見しました。明日は、予定どおり昼過ぎに伺います」
「お待ちしております」
侍女は一礼してから、少しだけ間を置いた。
「明日は、奥様もご一緒にいらっしゃいます」
言い方が、前に来た時より、少し硬かった。何かを付け足そうとしたように見えたが、侍女はそれ以上は言わず、もう一度礼をして帰っていった。
ミレイユは、作業台の前の椅子を一脚、接客の椅子の隣へ運んだ。二脚の椅子では、明日は足りない。
棚から、クラリスの試作を下ろした。仮の底を留めた一足。踵の包みの深さ、爪先の線、内側の細い帯の位置を、指で一つずつ確かめる。明日、誰がこの靴を見ても、説明できるように。
それから、古い稽古靴を手に取り直した。爪先の縫い目は、ほどかずに外から薄い革をかぶせる。ほどけば、ニナの足に馴染んだ形が崩れる。踵の内側のよれには、柔らかい革を一枚、折れ目に沿わせて貼る。今夜のうちに爪先を覆い、踵を押さえて、明日の朝には劇場へ届ける。仕入れの頁に、薄い革の切れ端、店の負担、と書いた。かかる時間は、どこにも書かなかった。




