第27話 緩めればいいわけではない
ニナの最初の試作は、受注から五日で形になった。
棚の中古の木型から、ニナの足に一番近い婦人用を選び、甲と踵に薄く革を足して調えた。材料商で、柔らかい山羊革を一枚買った。指で押すと、どこまでも沈んでいくような革だった。代金はニナの前金から払い、仕入れの頁に書いた。
爪先の内側には、縫い目が当たらないよう、少し余裕を持たせた。甲も、きつく締めないようにした。稽古場で見た、靴下に滲んだ赤い色が、裁つ間も頭から離れなかった。擦れる場所を、少しでも減らしたかった。
預かった三足目の靴は、作業台の端に置いてあった。緩めすぎた靴だ。自分はそこまでは緩めていない。ほんの少しだけ、余裕を持たせただけだ。そう思いながら、糸を締める手を、いつもより一つ手前で止めた。
その間に、ベルナールの工房からクラリスの木型を受け取ってきた。細い踵を後ろから包む線が、図のとおりに削られていた。
試作ができた日の昼、ニナが稽古の前に寄ってくれた。
試作に足を入れたニナは、最初に小さく息をついた。
「柔らかい」
「爪先は、当たりませんか」
「当たりません」
「では、いつもの動きを、少しだけしてみてください」
ミレイユは、胸の奥で少しだけ力を抜いていた。これなら、稽古の後に爪先が赤くならずに済むかもしれない。
ニナは通路の奥まで歩き、振り返った。それから、床の上で半分だけ回った。一度。二度。
三度目で、ニナの体が、ほんの一瞬遅れた。
足が靴の中で滑った。爪先が内側へずれ、靴だけが、足より先に止まった。ニナは片足で床を押さえ、倒れずに立ち直った。
しばらく、何も言わなかった。それから、靴を見下ろして、静かに言った。
「これ、前のと同じです」
作業台の端の、三足目の靴が目に入った。
「すぐに、締め直します。甲を――」
言いかけて、ミレイユは口を閉じた。
甲を締めれば、足は止まるかもしれない。けれど、また爪先に縫い目が当たるかもしれない。踵を締めるのか。爪先を締めるのか。どこを締めて、どこを残せばいいのか。
自分は、それを知らなかった。
ニナが通路の床を見下ろした。磨いた板の上に、ずれた靴の跡が、斜めに一本残っていた。
翌日、ミレイユは試作を布に包んで、稽古場へ行った。
振付担当の女性は、壁際の長椅子を顎で示した。
「休憩の間だけよ」
「はい。それだけで構いません」
稽古が一区切りつくと、ニナが壁際に来た。女性も、手拭いで首の汗を押さえながら、隣に腰を下ろした。
ミレイユは包みを開き、昨日のことを話した。爪先の擦れを減らしたくて、少し余裕を持たせたこと。三度目の回転で、足が靴の中で滑ったこと。
女性は試作を手に取り、指で甲を押した。それから、自分の踵と土踏まずを、指で順に叩いた。
「踵と、ここ。ここは、靴と一緒にいなければならないの。ここが靴から離れたら、回った時に体だけが先に行く」
「前の方は、どうですか」
女性は、自分の指を床の上で動かしてみせた。
「指と、前足の付け根は違う。ここは、床を掴むために、靴の中で働いている。ここを縛ったら、踊れない」
ニナが立ち上がり、試作を履いたまま、その場で一度だけ半分回ってみせた。ミレイユは、今度は靴の外ではなく、靴の中の足を想像しながら見た。回る瞬間、指は床を掴もうとして縮み、踵は靴の後ろから離れかける。離れかけた踵を、今の試作は引き止めていなかった。
ミレイユは、ニナの方を見た。
「では、擦れているのは、締めすぎだから、ではなかったんですか」
ニナは、自分の古い靴を思い出すように、少し考えた。
「締められて痛いのとは、違うんです。擦れるのは、爪先の縫い目が硬いところ。あと、甲の革がよれて、折れ目ができる線。そこが、回るたびに同じ場所に当たる」
ミレイユは手帳を開いた。
原因は、締めすぎではなかった。硬い縫い目と、よれる甲だった。それなのに自分は、全体を緩めることで擦れを減らそうとしていた。三足目の靴を直した店と、やったことは同じだった。程度が違うだけだ。
ミレイユは手帳に足の形を描いた。踵と土踏まずを包む線を、一本引く。保持の線。指と前足の付け根を囲む線を、もう一本。動きの線。間違えないように、保持の線は黒で、動きの線は赤で書いた。
女性は、その図を覗き込んだ。
「職人さんは、すぐ答えを持ってくるから困るのよ」
責める声ではなかった。けれど、ミレイユは笑えなかった。
「……はい」
「答えより先に、この子の足に聞いて。私の足じゃなくて」
女性はそう言って立ち上がり、手を打った。休憩が終わる合図だった。
稽古が終わったら、古い稽古靴を一晩だけ貸してほしい、とミレイユは頼んだ。ニナは頷き、夕方に店へ届けると言った。
ニナは靴を履き替えて、床の中央へ戻っていった。
手帳の上で、黒い線と赤い線が、一つの足の上に重なっていた。
帰り道、ミレイユは手帳の図を何度も開いた。血の滲んだ靴下を見た時から、擦れを減らすことしか考えていなかった。
店に戻ると、ミレイユは作業台の上の試作を、しばらく見ていた。
これを締め直して、もう一度ニナに履いてもらう。それは、昨日と同じやり方だった。一足を作り、履いてもらい、駄目なら直す。仮合わせの日には間に合うかもしれない。けれど、跳んだ時のことも、長い稽古の終わりのことも、自分には分からない。分からないことを、推測で埋めて一足にしても、また同じ場所で止まる。
ミレイユは白い紙に、試すことを三つ書いた。
一つ目は、踵と土踏まず。保持の線の内側だけを包む試し革を裁ち、ニナの古い稽古靴の内側に仮に留める。歩きと、回転で確かめる。
二つ目は、甲。縫い目を、指の当たる場所から外へ逃がした試し片を、山羊革で作る。試作の甲に縫い付けて、回転を二十回。試作の踵には、一つ目と同じ包みを仮に留めて、足が滑らないようにしてから。
三つ目は、前足の底。厚みを変えた二種類を作る。跳躍の着地で比べる。
一つずつなら、稽古の合間の短い時間で試せる。ニナが感想を書けるように、宮廷の記録紙と同じ欄の紙を作った。何回目か。どの動きか。どちらの足か。どこが、どうなったか。
試すことを分けると、試すための日が要る。一つ試して、結果を聞いて、直して、また渡す。壁に留めた工程表には、仮合わせと受け渡しの日しか書いていなかった。ミレイユは表の前で一度手を止め、それから、今はまず試すことにした。
その夜のうちに、一つ目と二つ目を裁って縫った。灯りを落としたのは、いつもより遅かった。
翌朝、ニナが稽古の前に寄り、古い稽古靴と、甲を付け替えた試作を持っていった。夕方、記録紙が戻ってきた。
――一つ目。歩き、問題なし。回転、十回目まで踵がついてくる。十二回目から少し浮く、右。
――二つ目。回転二十回、爪先は擦れない。甲の折れ目、出ない。
ニナの字は、宮廷のエステルの字より大きく、勢いがあった。それでも、欄は一つも飛ばしていなかった。
ミレイユは踵の包みを一回り深く裁ち直し、三つ目の底の二種類と一緒に、次の朝に渡した。甲の試し片は、そのまま続けて履いてもらった。
その合間に、クラリスの木型に甲を当て、一回目の仮合わせ用の試作を吊り込んだ。底はまだ仮に留めるだけ。仮合わせは、二日後に迫っていた。ニナの記録紙を読む手と、クラリスの甲を引く手を、ミレイユは交互に動かした。どちらの手も、止めるわけにはいかなかった。
その日の夕方、ニナが稽古場から試し片を持って戻ってきた。
記録紙には、深くした踵の包みについて、二十回で浮かない、と書いてあった。底は、薄い方が床を感じられる、ただし跳んだ着地が三十を超えると前足が痛む、とあった。
「明日も、この甲で踊っていいですか。気に入ったので」
「ありがとうございます。少し、見せてください」
ミレイユは、二日のあいだ稽古で使われた甲の試し片を外し、窓の光にかざした。
前足の付け根のところで、山羊革が伸びきっていた。柔らかさは、まだ残っている。けれど縫い目の際が、裂けかけていた。二日の稽古で、これだった。本番まで、まだ三週間あまり。毎日履いて馴染ませる。
革を光に透かすと、縫い穴が、丸ではなく楕円に広がっていた。




