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王都の靴職人は、シンデレラを帰らせたい  作者: 南野遥


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第26話 踊り子の足は、休んでいない

 

 リュシーの店に返事を預けた翌日、ニナは昼過ぎにやって来た。

 細い肩に布袋を掛け、髪を後ろで固くまとめている。戸口で鈴が鳴ると、靴音より先に、体の軽さが目に入った。


「ニナです。手紙を出した、踊り子の」

「お待ちしていました。どうぞ、お掛けください」


 ミレイユが椅子を勧めると、ニナは浅く腰掛け、布袋から靴を二足出して作業台に並べた。


「こっちが稽古用。こっちが舞台用。どっちも、同じ店で作ってもらったものです」


 手に取ってもいいかと尋ねてから、ミレイユは稽古用の一足を持ち上げた。柔らかい革の、底の薄い靴だった。爪先の内側が擦り切れて、指の形に穴が開きかけている。踵の内側の革が、何度も折れてよれている。底は、前半だけが薄くなっていた。踵の方は、ほとんど減っていない。


「爪先の、ここが擦れるのは、どんな動きの時ですか」

「回る時です。回る時は、前足の付け根に乗るので。その時、指が靴の中で前に押されて、縫い目に当たるんです」

「踵が減っていないのは」

「跳んで降りる時、踵まで下ろさないから。前で受けて、すぐ次に行くんです。踵を床につけるのは、止まる時だけ。それから、横に滑る動きだと、小指の方で床を押します。だから、外側の縫い目も、すぐ駄目になる」


 ニナは話しながら、自分の足の甲を指でなぞってみせた。

 ミレイユは、聞きながら頷いていた。磨いた床。回る。踊る靴。クラリスの靴で考えたことが、ここでも使えるかもしれない、と思いかけた。


「磨いた床で回るなら、今作っている舞踏会の靴と、近い考えで――」


 ニナは、言い終わる前に首を振った。


「舞踏会の靴みたいに、きれいに歩く靴じゃないんです。床を蹴って、止まって、また蹴る靴。歩くのは、袖から出る時と、引っ込む時だけです」


 ミレイユは、思いかけたことを、手帳に書く前に飲み込んだ。

 ニナは、川沿いの劇場の一座で、群舞を踊っている。主役ではない。十人の列の一人として、同じ振りを、同じ高さで、同じ時に踊る。

 本番は、一座の夏の公演の初日。ひと月と少し先だった。衣装合わせがあるので、靴はその四日前までに欲しい、という。

 受注票を取り、ミレイユはいつもの欄を尋ねた。どう見られたいか。

 ニナは、少し笑った。


「見られたくないです。靴なんて、お客さんに気づかれない方がいい」


 ミレイユは、その言葉をそのまま書いた。

 ニナが靴を脱いで、足を見せてくれた。踵の皮膚が、硬く厚くなっている。指の付け根には、古いたこと、新しい擦り傷が重なっていた。

 ニナは見せ終えた二足を布袋に戻した。稽古は明日もある。

 休んでいない足だ、とミレイユは思った。


 翌日の午後、ミレイユは川沿いの劇場の、裏口の階段を上った。

 稽古場は二階にあった。窓の多い、天井の高い部屋で、板の床がよく磨かれている。床の上に、白い粉が薄くまかれていた。滑りすぎないための粉だと、ニナが前の日に教えてくれた。

 振付を担当する年配の女性が、壁際の長椅子を指差した。


「そこで見ていてちょうだい。動いている間は、話しかけないで」

「はい。ありがとうございます」


 女性は、ミレイユの前掛けと手帳に一度目をやった。靴屋が稽古場に来るのは珍しいのだろう。それ以上は何も言わず、部屋の中央へ戻っていった。

 ミレイユは長椅子の端に座り、手帳を膝に置いた。

 十人ほどの踊り手が、床の中央に並んだ。手を打つ音が一つ。全員が同時に、軽く跳んだ。


 客席から見れば、きっと羽のように見えるのだろう。けれど壁際の近さでは、着地のたびに床が低く鳴るのが聞こえた。前足の付け根に、体重がまとめて落ちる。その瞬間、靴の底がわずかに捻れる。

 回転では、足が先に回ろうとして、靴が一瞬遅れてついていく。甲の革が、そのたびによれた。群舞の列が横へ流れる時、踊り手たちは小指の側で床を押し、隣の人との間を、指一本分も狂わせずに止まった。止まる位置が一歩ずれれば、列全体が崩れる。


 ミレイユは、手帳に書いた。動き。靴のどこ。どちらの足。宮廷の記録紙に作った欄を、そのまま借りた。

 跳躍の着地、前足の付け根、底の捻れ、両足。

 回転、甲、よれ、軸の足。

 横の滑り、小指側の縫い目、外へ押す、流れる側の足。


 稽古は同じ一節を何度も繰り返した。五度目になると、踊り手たちの額に汗が浮き、床の粉に足の跡が重なっていく。振付担当の女性が手を打つたびに、全員が同じ場所で止まり、また同じ場所から跳ぶ。疲れても、止まる位置は変わらない。変わるのは、着地の音だった。回を重ねるごとに、少しずつ重くなる。


 ニナは列の右から三番目にいた。ミレイユは途中から、ニナの足だけを追った。着地のたびに、右足の小指側が、ほんのわずかに外へ逃げる。

 一つ書くたびに、舞踏会の靴を考えた時の線が、手帳の中で一本ずつ合わなくなっていった。広間の床は、踊る人を受け止めていた。この床は、踊る人に蹴られている。返ってくる力の向きが、違った。

 休憩の声がかかると、ニナが壁際に来て、靴を脱いだ。

 靴下の爪先に、小さく赤いものが滲んでいた。


「手当てを、した方が」

「いつものことです。舞台の前は、もっとひどいので」


 ニナは笑って、布で爪先を押さえた。ミレイユはそれ以上は言わなかった。踊り手の足のことは、踊り手の方がよく知っている。言えるのは、靴のことだけだ。

 ミレイユは、手帳の一番下に一行足した。

 ――舞踏会の靴の考えを、そのまま持ち込まない。


 その次の日、ニナがもう一度店に来た。

 稽古場で書いたものを見せながら、ミレイユは仕様を一つずつ話した。


「舞台用の一足として作ります。稽古でも履いて、足に馴染ませてから本番に使えるように。革は柔らかく、足の形に沿うもの。底の前の方は、床を感じられるくらい薄くします」

「踵は」

「踵は、止まる時に支えられるように。前の方とは、作りを変えます」


 ニナは、手帳の書き込みを覗き込んで頷いた。

 代金は七銀貨と決めた。木型は既製の婦人用を店で調整する。外には出さない。前金として二銀貨を預かり、残りの五銀貨は受け渡しの時。


「一座は、群舞の靴代は出さないんです。だから、自分で」


 ニナは小さな財布から銀貨を二枚出した。ミレイユは受け取りを書き、売上の頁に「前金 二銀貨」と記した。残り五銀貨は受け渡し時、とその横に書く。


「残りは、受け渡しの時に。それまでに、仮合わせを二度お願いします」


 稽古場で右の小指側が外へ逃げていた、とミレイユが話すと、ニナは少し驚いた顔をした。


「自分では、気づいていませんでした。でも、外側の縫い目が先に切れるのは、そのせいかも」


 ミレイユはそれを受注票の余白に書いた。それから、白い紙を一枚取り、線を引いた。

 上の段に、クラリスの靴。木型の受け取り、一回目の仮合わせ、二回目の仮合わせ、受け渡し。下の段に、ニナの靴。一回目の仮合わせ、二回目の仮合わせ、受け渡し。日付を書き込むと、二つの段の印が、表の上で互い違いに並んだ。仮合わせの日は、一度も重ならない。受け渡しは、ニナが一日先。


 クラリスの木型は、四日後に受け取る。一回目の仮合わせはその六日後。ニナの一回目は、さらにその二日後。木型を作る日、革を裁つ日、吊り込む日。頭の中で数えると、どの日にも何かを入れられる。修理の札も、その合間に片付けられるはずだった。

 きれいな表だった。これなら、どちらの約束も守れる。ミレイユは表を作業台の前の壁に留めた。

 ちょうどその時、材料商の使いが、取り寄せの底革を届けに来た。クラリスの靴の分だ。


「ありがとうございます。そこの棚に置いてください」


 ミレイユは受け取りに印を押した。

 帰り際、ニナが布袋の口を開けたまま、少し迷うように手を止めた。


「もう一足、見てもらってもいいですか」


 出てきたのは、三足目の靴だった。前の二足と同じ形をしている。けれど、甲の革に、縫い目をほどいて付け直した跡がある。


「拝見します」


 ニナは、その靴を作業台に置いた。


「前に、別の店で直してもらったんです。擦れるのが辛くて、楽な靴にしてくださいって頼んで。甲と、踵を緩めてもらいました。……楽な靴にしたら、動けなくなったんです」


 ミレイユは靴を手に取り、踵の後ろを指で押した。

 芯の入っていた場所が、頼りなく潰れた。

 この一足を、しばらくお預かりしてもいいですか、とミレイユは尋ねた。ニナは頷いた。

 

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