第25話 逃げる靴とは、決めつけない
材料商の棚の奥に、苔色の革は一枚だけ残っていた。
ミレイユは革を作業台に広げてもらい、エステルの木型の型紙を当てた。甲と、踵を包む部分。傷を避けて置いても、二足分は取れないが、一足分なら余裕がある。
「その色、半年も売れ残ってたんだ。誰が買うのかと思ってた」
材料商は笑いながら、一銀貨八十銅貨と言った。ミレイユは自分の財布から払い、仕入れの頁に、エステル様、と書き添えた。
「もう一つ、伺ってもいいですか。磨いた木の床でも、石の上でも、滑りにくい底革はありますか」
「取り寄せになるね。十日はかかる」
一銀貨二十銅貨。クラリスから預かった前金の袋から払う。受け取りの紙に、十日後の日付が書かれた。
翌日の夜、ミレイユは作業台に白い紙を広げ、絹の見本の切れ端を横に置いた。
階段を、急いで駆け下りる。誰かの手を借りずに、帰る。
ペンを持つと、その二つの言葉が、頭の中で何度も鳴った。
踵は、ほとんど平らにした。高い踵では、急いだ時に足首を取られる。甲には、太い留め帯を一本。どれだけ急いでも、靴が脱げないように。飾りは付けなかった。裾に引っかかるものは、少ない方がいい。
底は、前から後ろまで同じ厚さにした。どこでも滑りにくいように、取り寄せる底革を一面に貼る。履き口は深く、踵を後ろから包む。手を使わずに脱げないほどしっかり留めれば、急いでも外れない。そう考えて、留め帯の金具の位置まで描き込んだ。
描き終えて、少し離れて見た。
宮廷の仕事靴よりも、地味な靴だった。一瞬、何かが引っかかった。けれど、ミレイユはそれを、安全な靴だからだと考えて片づけた。転ばないことより大事なことが、あるだろうか。
ミレイユは図の上に絹の見本を載せ、ペンを置いた。
三日後の昼、エステルが休みの日の服で店に来た。
宮廷用の木型の甲には、ミレイユが自分で薄い革を足して、少し広げてあった。その上で苔色の甲を吊り込み、仮の底を付けた試作が、作業台に置いてある。
エステルは試作を見て、しばらく黙っていた。それから、自分の足を入れた。
「甲が、楽です」
通路を一往復してもらう。それから、店の裏の段を下りてもらった。姉の家からの帰り道の、坂の下りのつもりで。
ミレイユは後ろから踵を見た。下りるたびに、踵がわずかに外へ逃げる。古い靴の、斜めのすり減り方と同じだった。
「底の外側を、ほんの少しだけ厚くしてもいいですか。坂を下りる時に、外へ流れにくくなります」
「お願いします」
ミレイユは試作の底の外側に、印を付けた。それから、受注票の束の上に置いていた紙を取って、エステルに差し出した。
「宮廷の靴の、記録紙の原本です。調達局から戻ってきました。書いた本人と、作った店のものだから、と」
エステルは紙を受け取り、自分の字の下に並んだミレイユの字を、指でたどった。
「長い日の、あの欄。書いておいてよかったです」
「受け取りは、いつがよろしいですか」
「急がなくていいんです。姪の誕生日に、これを履いて姉の家へ行きたいので。その前の休みの日に、受け取りに来ます」
エステルが言った日付を、ミレイユは手帳に書いた。ひと月と少し先だった。
帰る前に、エステルは私服の裾を少し持ち上げて、苔色の爪先を見下ろした。宮廷では一度も見たことのない顔だった。勤めの靴を履いている時のエステルは、いつも爪先を揃えて立っていた。今は片足を少し前に出して、角度を変えては、色の具合を確かめている。
その顔を見た時、ミレイユはなぜか、作業台の端に置いたままのクラリスの図を思い出した。
その二日後、クラリスが侍女を連れて来た。図案を見せてほしい、と手紙で日を指定してきたのだった。
ミレイユは作業台の端に図を広げ、クラリスの椅子をその前へ寄せた。
「急いで階段を下りても、踵が残らないように、低くしてあります。甲は、この帯でしっかり留めます。裾に引っかからないように、飾りは付けていません」
クラリスは、長いあいだ図を見ていた。侍女は戸口の脇で、少しだけ首を伸ばした。
クラリスは、言葉を探すように、絹の見本の切れ端に指を置いた。
「急いで下りられることは、大事です。でも、せっかくなら、きれいに踊りたいんです。広間では、皆と並んで踊ります。その時に、私だけ、別の場所へ行く靴に見えたくありません」
責める声ではなかった。
「踊る時、皆さんの足元は、どんな靴ですか」
「細くて、軽い靴です。踊ると、裾の下で爪先だけが、交互に光るんです。私はそれを見るのが、子どもの頃から好きでした」
ミレイユは、それ以上、すぐには言葉が出なかった。
家の娘として、きちんと見えるように。階段を急いで駆け下りられるか。誰かの手を借りずに帰れる靴。受注票には、三つの言葉が書いてあった。自分はそのうち、一つしか拾っていなかった。階段の言葉に引っ張られて、残りの二つを、図の外へ落としていた。
鏡の前で黙ったエステルの横顔が、頭をよぎった。同じことを、また繰り返すところだった。
「……一つの言葉だけで、形を決めていました。描き直させてください。その前に、もう一度伺ってもいいですか」
言い訳は、足さなかった。
「はい」
ミレイユは受注票を取り、「どう見られたいか」の欄に、横線を一本引いて二つに分けた。上の段に、外見の条件。下の段に、動作の条件。
「上には、どう見えたいか。下には、どう動きたいか。両方、書かせてください」
クラリスは頷き、一つずつ言った。
この絹に合う色であること。皆と並んで踊った時に、線がきれいに見えること。裾から爪先が覗いた時に、恥ずかしくないこと。
踵が浮かないこと。磨いた床でも、石の廊下でも、滑りすぎないこと。階段を、急いで下りられること。誰の手も借りずに、自分で履いて、脱げること。
ミレイユは、それをそのまま書いた。二つの段の言葉は、同じ紙の上で、どこもぶつかっていなかった。
踵の高さは、図の上に二つの案を描いて比べてもらった。指一本分と、指二本分。クラリスは二つを見比べ、自分の指を図の上に当ててから、その間を指した。
「このくらいが、いいです」
「指一本半ですね。踊る時の線も、急ぐ時の足首も、どちらも守れる高さです」
クラリスは受注票の二つの段を、もう一度見下ろした。
「どちらも、私です」
小さな声だった。ミレイユは、その言葉を、欄の外の余白に書いた。
その夜、ミレイユは図を描き直した。
太い留め帯は消した。代わりに、裾に隠れる側の内側に、細い帯を一本通す。外からは見えないが、踵を後ろから引き寄せて、浮かないようにする。爪先は、裾から覗いた時に細く見える線に。底は、一面に同じものを貼るのをやめた。踊る時に回る前の方と、階段で止まりたい後ろの方では、床に求めることが違うのかもしれない。そこはまだ、答えが出なかった。図の余白に、問いのまま書いておく。
古い図は捨てずに、新しい図の下に重ねた。
翌朝、ミレイユは採寸の紙と描き直した図を抱えて、ベルナールの工房へ行った。
「踵は、指一本半です。踵の骨が細いので、後ろを深く包む形にしたいんです。それと、左の甲が、右よりわずかに高くて」
ベルナールは採寸の紙を見て、太い指で数字を一つずつ押さえた。
「新しく削った方が早い。二銀貨五十銅貨。七日だ」
「お願いします。踵の後ろは、図のこの線で」
ベルナールは図の踵の線に親指を当て、少し首を傾げた。
「前のと違って、ずいぶん細い靴だな。踊るのか」
「はい。踊って、それから、急いで歩くかもしれない靴です」
ベルナールはそれ以上聞かず、木型の荒材を棚から一本下ろした。
七日後なら、一回目の仮合わせまで、まだ六日ある。試作を作るには足りる。ミレイユは前金の袋から払い、受け取りの日付を書いてもらった。
店に戻って、仕入れの頁に書く。底革、一銀貨二十銅貨。木型、二銀貨五十銅貨。前金の袋に残ったのは、一銀貨と三十銅貨だった。
受け取り棚の脇に、手紙が一通差し込まれていた。
封はしていない。広げると、慣れない字で、短く書いてあった。リュシーさんの花店で、この店のことを聞きました。踊り子をしています。別の公演のための靴の相談に、伺ってもいいでしょうか。ニナ。
踊り子。舞台の上で踊る人の靴。舞踏会の靴と、同じ踊る靴だ。クラリスの靴で考えたことが、少しは役に立つかもしれない。
ミレイユは手帳の予定の欄を開いた。クラリスの日付と、エステルの日付。その間に、まだ何も書いていない日が、いくつか並んでいた。




