第24話 階段を駆け下りられますか
ミレイユが近づくと、女性は看板から目を下ろした。
年は二十ほど。淡い色の外出着に、つばの小さな帽子。腕の中の包みを、落とさないように抱え直している。後ろに控えた侍女は、ミレイユの前掛けと手元の帳面を、静かに見ていた。
「こちらの、靴のお店の方でしょうか」
「はい。店の者です。どうぞ、中へ」
戸を開けると、鈴が鳴った。女性は敷居の前で一度足を止め、それから中へ入った。
店の中が、急に狭く見えた。作業台。木型の棚。受け取り棚の札。七歩の通路。いつもと同じものが、いつもより低く、近くに感じられる。女性の帽子のつばが、棚の端に触れそうだった。
ミレイユは二脚の椅子の一つを引いた。女性は腰を下ろす前に、もう一つの椅子に包みをそっと置いた。
「クラリスと申します。伯爵家の者です。突然伺って、申し訳ありません」
「ミレイユ・ロランです。この店で、靴を作っています」
ミレイユは自分の椅子を作業台の前から運んできて、向かいに座った。侍女は戸口の脇に立ったまま、座ろうとしなかった。
「舞踏会の靴を、お願いしたいのです。正式な舞踏会で、七週間ほど先になります」
「七週間。仮合わせを二度入れても、間に合います」
ミレイユが言うと、クラリスは小さく頷き、包みの布をほどいた。中から、淡い色の絹が現れた。朝の空のような、ごく薄い青。光の角度で、銀色にも見える。
「この生地で、ドレスを仕立てています。色は、このままです。裾は、床にほんの少し触れるくらいの長さになると聞いています」
ミレイユは、生地の端に触れてもいいか尋ねてから、指先で布をつまんだ。薄く、柔らかく、ひどく滑らかだった。裾が床に触れる長さなら、歩くたびに靴の爪先が見え隠れする。
「どなたかのご紹介で、いらしたのですか」
「いいえ。宮廷の女官の靴を作った工房がある、と聞いて。この通りの名前だけを頼りに来ました」
宮廷の仕事をした店、という評判は使っていい。アニエスの声を思い出した。使うつもりはなかったのに、評判の方が先に歩いて、ここまで客を連れてきていた。
ミレイユは、左右の足を測らせてもらえるか尋ねた。クラリスが頷くと、侍女が膝をつき、主人の靴の紐を解いた。白い絹の室内履きのような、柔らかい靴だった。紐を解き終えると、侍女はまた戸口の脇へ下がった。
ミレイユは採寸の台を寄せ、クラリスの足を紙の上に置いてもらった。足長、足囲、甲の高さ。左は右より、わずかに甲が高い。指は長く、まっすぐで、靴に押し込まれた癖があまりない。踵の骨は細い。細い踵は、靴の中で浮きやすい。ミレイユは数字の横に、小さく印を付けた。
立って、通路を少し歩いてもらうよう頼んだ。クラリスは室内履きのまま、七歩の通路を奥まで歩き、戻ってきた。歩幅は小さく、まっすぐだった。爪先から静かに下ろす歩き方で、踵の音がほとんどしない。床の一か所で板が低く軋むと、クラリスは足元を見下ろし、ほんの少し笑った。それから、何も言わずに椅子に戻った。
採寸を終えると、受注票を一枚取った。名前の欄を書く前に、ペンを止める。
「どう見られたいか、を伺ってもいいですか」
クラリスは、少しも迷わなかった。
「家の娘として、きちんと見えるように。それで十分です」
答えは淡々としていた。言い終えると、クラリスは隣の椅子の絹に一度だけ目をやった。ミレイユは、聞こえたとおりに書いた。
「舞踏会では、どのくらい踊られますか」
「始まりから、夜半過ぎまで。踊るのは、たぶん半分ほど。あとは立って、話をしています」
「広間の床は、何でできていますか」
「磨いた木の床です。とてもよく滑ります。端の方は石で、控えの間へ行く廊下も石です。少し長い廊下です」
ミレイユは書いた。踊る時間、夜半過ぎまで。半分は立つ。磨いた木の床、石の廊下。
質問は、そこで尽きたはずだった。舞踏会の靴として聞くべきことは、ほとんど聞いた。
クラリスが、膝の上で手を重ねた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「はい」
「この靴で、階段を急いで駆け下りることは、できますか」
戸口の脇で、侍女が一瞬顔を上げた。すぐに、また目を伏せた。
ミレイユは、その顔を見なかったことにした。理由を聞けば、答えはもらえるかもしれない。けれど、クラリスが自分から言わなかったことを、ここで引き出すのは、靴屋の仕事ではなかった。
ミレイユは、すぐには答えなかった。
大丈夫です、と言えば、クラリスは安心するだろう。けれど、それは本当ではない。
「階段を急いで下りることを、靴の条件に入れて作ることは、できます。そのためには、踵がしっかり靴の中に留まっていること。底が、磨いた床でも石でも、滑りにくいこと。この二つを、最初から形に入れます。細い踵の方は、急いだ時に靴の中で踵が浮きやすいので、そこを特に気をつけます。ただ、どんな靴でも、急いで下りれば転ぶことはあります。それを、私は無いとは言えません。仮合わせの時に、店の裏の段と、手すりのある階段で、ゆっくりから試していただきます。確かめながら、決めさせてください」
言いながら、クラリスがまっすぐこちらを見ていることに気づいた。言葉を選んだのは、正しかったと思った。
「……ありがとうございます」
クラリスは、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
予算の話になった。絹に合わせた甲革、細い踵を保つ芯、滑りにくい底、舞踏会の靴にふさわしい仕上げ。ミレイユは紙の上で一つずつ数え、二十二銀貨と書いた。木型は、クラリスの足に合わせてベルナールに頼むことになる。滑りにくい底革は、材料商に取り寄せてもらう必要がある。絹の色に合う甲革も、まだ手元にない。特注の礼装靴としては、ぎりぎりまで抑えた額だった。
「材料を先に仕入れるため、前金として五銀貨をお預かりしたいのです。残りは、お渡しの時に」
クラリスは侍女の方を振り返った。侍女が小さな帳面を開き、何かを確かめる。二人は短く言葉を交わした。
「私の手元のお金から、出せます。前金も、今日お渡しします」
侍女が財布から五枚を数え、作業台の上に置いた。ミレイユは数え直してから受け取りを書き、売上の頁に「前金 五銀貨」と、残り十七銀貨は納品時と記した。材料の代金は、この五枚から出ていく。
仮合わせは二回。一回目は三週間後。二回目はその二週間後。納品は、舞踏会の十日前。ミレイユは手帳の予定の欄を開き、五日後に入っているエステルの仮合わせと重ならないことを確かめてから、日付を書き込んだ。
クラリスが、自分の手帳を取り出して日付を写した。開いた頁の間に、押し花が一つ挟まっていた。薄紫の小さな花。その横に、細い字で植物の名前らしいものが、いくつも書き込まれている。クラリスはすぐに頁をめくり、日付の頁を開いた。
それからクラリスは包みの中から、仕立て屋に分けてもらったという小さな切れ端を一枚取り出し、色合わせの見本に、と差し出した。ミレイユは、お預かりします、と受け取った。包みは侍女が抱え直した。
ミレイユは受注票の金額の欄に、二十二銀貨、と書いた。その下に、前金五銀貨受領、残り十七銀貨は納品時。
これまでで、一番大きな数字だった。ペンを持つ手が、少しだけ浮き立つ。リュシーの六銀貨。宮廷の十六銀貨。その上に、二十二銀貨。
ミレイユは、ペンを置いた。浮き立った分だけ、さっきの問いが重くなった。階段を急いで駆け下りる靴。何のために、とは聞かなかった。聞かないまま、その重さだけを預かった。
見送りに出ると、裏通りには午後の日が斜めに差していた。
侍女が先に馬車の扉を開け、踏み台を下ろす。クラリスは踏み台に片足を掛けたところで、振り返った。
淡い色の外出着の裾が、風で少し揺れた。
「できれば、誰かの手を借りずに帰れる靴が、欲しいのです」
それだけ言って、クラリスは馬車に乗った。侍女が続き、扉が閉まる。御者の合図で、黒い車体がゆっくりと動き出した。磨かれた金具が、裏通りの壁に光の点を一つ走らせて、角の向こうに消えた。
ミレイユは、店の前に立っていた。
手の中には、見本としてお預かりした絹の切れ端が一枚あった。朝の空のような、ごく薄い青。指でつまむと、頼りないほど柔らかい。
誰かの手を借りずに、帰る。
どこから、どこへ。誰の手を。
ミレイユは、それを考えるのをやめた。考えて埋めた答えは、たぶんクラリスの答えではない。
受注票には、本人の言葉だけを書く。家の娘として、きちんと見えるように。階段を急いで駆け下りられるか。誰かの手を借りずに帰れる靴。三つの言葉は、同じ紙の上で、まだつながっていなかった。つなげるのは、自分ではない。
絹の切れ端を受注票の間に挟み、ミレイユは店の戸を開けた。鈴が、いつもと同じ音で鳴った。




