第31話 花を、歩く邪魔にしない
図譜の写しが届いた翌日、クラリスは侍女を連れて、短い時間だけ店に寄った。
ミレイユは、クラリスが写した図を作業台に広げ、その横に、自分で写し取って線を減らした一枚を並べた。
「このままの線では、刺繍にできません。細かすぎて、糸が重なってしまうので。花弁の数と、葉の向きは変えずに、線を減らしたいんです。この花だと分かる形は残します。そうしてもいいか、伺いたくて」
クラリスは二枚を見比べた。自分が写した図譜の一枚と、線を半分ほどに減らした図。花弁は五枚。葉は、茎から互い違いに二枚ずつ。
「花弁の筋は、なくなるんですね」
「糸の色を二つにして、筋の代わりにします。外側を薄紫、内側を少し淡く。茎と葉は、絹の色に合わせた薄い青で」
クラリスは、しばらく図を見ていた。それから頷いた。
「お願いします。この花だと、私に分かれば、それでいいので」
ミレイユは写しを丁寧に畳み、クラリスに返した。手元に残したのは、自分で描いた線の少ない図だけだった。写しも、もとの図譜も、クラリスのものだった。
「余白に、この花の名前がありました。お庭で見つけた花なのですか」
「家の庭の端です。石垣の隙間に、毎年少しだけ咲くんです。小さな風露、という名前で。誰も植えていないのに、そこにだけ」
話しながら、クラリスは石垣の高さを手で示した。膝より少し低い。しゃがんで覗き込まないと、見えない花なのだという。
クラリスが帰ったあと、ミレイユは引き出しから刺繍針の小箱を出した。店を出る時に、道具箱に入れてきたものだった。薄紫と、薄い青の絹糸は、材料商で一巻きずつ買い、仕入れの頁に書き足してある。
端切れの革を枠に張り、針を通す。
一枚目の花弁を刺し終えたところで、ミレイユは手を止めた。指が、迷っていなかった。父の店で銀糸の蔓草を刺していた頃と、同じ速さで動いていた。あの頃は、誰の足に履かれるのかを最後まで知らずに刺していた。今は、石垣の隙間を覗き込む人の足だと、知っている。
花の位置を決めるのに、三日かかった。
試し革に刺した花を、クラリスの木型に当て、場所を変えては、裾の代わりに絹の見本を垂らして確かめた。
最初は、爪先の上に置いた。裾から覗いた時に、一番目に入る場所だ。けれど、絹の端をゆっくり下ろすと、刺繍の縁に一度だけ引っかかった。歩くたびに裾が触れる場所では、糸がすぐに傷む。
次は、踵の内側に置いた。ここなら裾は届かない。けれど、木型を二本並べて、回る時の足の向きを真似てみると、逆の足の靴の踵が、ちょうどその場所に擦れた。踊っている間に、花が削れていく。
三つ目の位置は、甲の外側だった。隠した内側の細い帯の付け根の、ちょうど上。帯が引く力を受け止める場所で、革が一番落ち着いている。裾の縁が通る場所からは外れていて、絹を何度下ろしても、糸には触れない。逆の足とも当たらない。刺繍は盛り上げず、平らに刺す。糸だけで、金具は何も使わない。典礼の係が示した三つの決まりの、二つ目の行にも触れない。
作業台の端に、使わなかった試し革の花が三つ並んだ。爪先の花。踵の花。最初に刺した、針目の粗い花。どれも、悪い花ではなかった。置く場所が違っただけだ。
その合間に、右の踵を直した。履き口の後ろを、少し細く、深く包むように裁ち直す。内側の帯は、引く角度をわずかに上へ。下りの時に、踵を後ろから抱えるように。
底も決めた。前の半分は、滑らかなまま残す。広間の床で回る時に、引っかからないように。後ろの半分と土踏まずには、取り寄せた底革を当て、細かな刻みを入れる。リュシーの配達の靴で、雨の石畳のために入れたのと同じやり方だった。あの時は濡れた石の上で止まるために。今度は、階段の縁で止まるために。
照会を出してから八日後に、調達局から書面が届いた。底の略図の作りは、広間の床を傷めないものと認める、と書いてある。典礼の係の印が押されていた。略図の原本は、局に残された。ミレイユは、控えを受注票の束に挟んだ。
その間に、ニナの仮合わせも二度あった。
一度目は、鹿革と補強の帯で作り直した試作だった。ニナは通路で半回転を十回繰り返し、靴の中で足が滑らないことを確かめてから、黙って頷いた。二度目は、底の厚みを決めた試作で、稽古場に持ち帰って一日履いてもらうことにした。
エステルの苔色の靴は、その合間に底を本付けし、仕上げまで済ませて棚の奥に置いた。受け取りの日まで、布をかけておく。
二回目の仮合わせの日、クラリスは侍女と二人で来た。
作業台の上の試作を見て、クラリスは足を入れる前に、身をかがめた。
甲の外側に、薄紫の小さな花が一つ、平らに刺してある。五枚の花弁。互い違いの葉。茎は、絹と同じ薄い青。
クラリスは指を伸ばしかけて、触れる手前で止めた。それから、そっと花弁の縁をなぞった。何も言わなかった。けれど、石垣の隙間を覗き込む時も、たぶんこういう顔をするのだろう、とミレイユは思った。
好きなものを好きだと言った人に、それを形にして返せる。それが、こんなに嬉しいとは知らなかった。
まず、通路を歩いてもらう。細くした爪先は、裾の代わりに垂らした絹の下から、ほんの少しだけ覗いた。四歩目の床鳴りで、クラリスはまた少し笑った。
店の裏の段も、二段下りて、上がってもらった。右の踵は、浮かなかった。
「今日は、もう一つ、試していただきたい階段があります」
「階段、ですか」
ミレイユは、帽子店の二階へ上がる階段を借りていた。前の晩に、アニエスに頼んであった。手すりがあって、段は十二。店の裏の段より長い。
アニエスは帽子店の戸口で三人を迎え、何も聞かずに奥の階段を指差した。
ミレイユは、クラリスと侍女に、試し方を先に話した。
「手すりに、必ず手を添えたまま下りてください。最初はゆっくり。次は、普段の速さ。最後に、少しだけ急いで。怖いと思ったら、そこでやめます。下には私が立ちます。上には、侍女の方に立っていただけますか」
侍女が頷き、階段の上に立った。ミレイユは一番下の段の前に立った。
クラリスが、手すりに手を添えて、一段目を下りた。
ゆっくりの時は、何も起きなかった。普段の速さでも、踵は浮かなかった。ミレイユは段の縁を見ていた。底の後ろの刻みが、縁に触れるたびに、そこで足を止めている。
三度目。クラリスが、少しだけ速く下りてきた。スカートの裾が揺れる。最後の三段で、足音が詰まった。けれど、踵は靴の後ろについたまま、底は段の縁から滑らなかった。
クラリスは一番下の段で止まり、手すりから手を離した。少し息が上がっていた。
「どうでしたか」
「足が、靴と一緒に下りてくる感じがします」
ミレイユは手帳に書いた。三段階、踵浮かず、刻み効く。それから、顔を上げた。
「ただ、一つだけ、もう一度お伝えさせてください。急ぐための靴でも、転ばない保証はできません。今日は手すりがありました。広間の階段に手すりがあるか、段の高さがどうか、私は知りません。急ぐ時ほど、手すりを使ってください」
クラリスは頷いた。
「分かりました。急いでいても、手すりは使います」
「ありがとうございます」
刺繍の花は、絹の見本を何度下ろしても、一度も引っかからなかった。
店に戻ってから、クラリスが言った。
「受け取ったあと、舞踏会が終わってから、もう一度見せに来てもいいですか。どうだったか、靴の方のことを、お話ししたいので」
「はい。その確認も、仕事に含めさせてください。擦れや傷みがあれば、その時に直します」
「それなら、お支払いの残りは、その時にしてもいいですか。靴の様子を見ていただいてから、最後の分をお支払いしたいんです」
「できます。では、受け渡しの時に十二銀貨、最後の確認の時に五銀貨で」
ミレイユは受注票の支払いの欄を書き直した。前金五銀貨、受領済み。受け渡し時、十二銀貨。舞踏会後の最終確認時、五銀貨。受け渡しの日も、四日後と書き足す。クラリスと侍女が、その欄を指でたどって確かめた。侍女が帳面を開き、数字を照らして、小さく頷く。
「今日の試作は、お預かりします。このまま、本付けに入ります」
「お願いします」
その日の夕方、劇場の使いの子が、短い手紙を届けに来た。ニナの字だった。
――新しい靴で、今日の稽古を最後まで踊れました。
ミレイユは手紙を二度読んでから、受注票の束の一番上に置いた。
戸締まりの前に、階段の礼を言いに帽子店へ寄った。開いた戸の奥、二階へ上がる階段の上で、アニエスが黙って手すりを拭いていた。礼を言うと、アニエスは手を止めないまま、一度だけ頷いた。




