第22話 一足分の報酬
調達局の小部屋には、ユリウスのほかに、会計の係が一人座っていた。机の上に、帳簿と、口を紐で縛った小さな布袋が置いてある。
ミレイユは、持ってきた紙を机に並べた。引き渡しの紙の控え。記録紙の写し。その下に、一晩預かって直した日の、調整の記録。
ユリウスは一枚ずつ目を通し、記録紙の写しを、手元の原本と並べた。欄の順番も、エステルの字の下に書き足したミレイユの字も、同じ位置にある。
「試用の報告と、納品後の調整。確かに受けています。検収とします」
会計の係が布袋の紐を解き、銀貨を机の上に並べた。十枚ずつ、二列。最後の列は六枚。
「代金、十六銀貨。契約の額のとおりです」
契約書の上限は十八銀貨だった。その欄を、ミレイユは見なかった。上げなかったのは、自分で決めたことだ。
係が受け取りの紙を差し出す。名前を書く欄の上に、『ひとあし工房』と店の名が先に書かれていた。ミレイユはペンを取り、その下に自分の名を書いた。少し手が硬かった。
銀貨を数え直し、布袋に戻して受け取る。
重かった。
リュシーの靴の代金は、六枚だった。あの時、掌に載せた六枚を、ミレイユはよく覚えている。初めて自分の店で一足を作り、渡し、受け取った重さ。今日の袋は、その倍よりも重い。
ユリウスは検収の書面に印を押し、控えをミレイユに渡した。調整の記録の紙にも、同じ印が押された。料金を取らなかった一晩の仕事が、宮廷の書類の中に一枚、残る。
「記録紙の写しは、こちらで預かります」
「はい」
部屋を出て長い廊下を歩くあいだ、ミレイユは布袋を胸の前で抱えていた。謁見の間の前を通る。扉は閉まっていて、中の列は見えなかった。あの列のどこかで、今日もエステルが立っているのだろう。
宮廷の銀貨は、店の銀貨と同じ形をしていた。
その夜、店の灯りを低くして、ミレイユは手帳を開いた。
売上の頁に、まず書く。宮廷試作、十六銀貨。
それから、仕入れの頁を一枚ずつめくった。宮廷の靴のために出ていったものを、紙の端に書き出していく。
木型の加工、一銀貨五十銅貨。爪先の追加加工、四十銅貨。初めの試作の材料、三銀貨ほど。作り直しの材料、二銀貨ほど。イリーナの講習、一銀貨二十銅貨。
十六銀貨から引く。ペンの先で、一つずつ数字を消していく。途中で一度、指で銀貨の列を数え直した。間違えたくなかった。
残ったのは、七銀貨と九十銅貨だった。
まだ、ある。提案の紙と、見本の革。捨てた甲革が二枚。姿見の運び賃。山羊革の切れ端。どれも小さな額だが、全部、店の財布から出ている。紙の端に書き足すと、七銀貨九十銅貨は、もう少しだけ細くなった。
ミレイユは、手帳の前の方をめくった。エステルと初めて面談をした日。そこから数えると、七週間ほどが経っている。
七週間で、七銀貨と少し。
その同じ七週間に、売上の頁には、修理の銅貨の行が何十も並んでいた。一つ一つは小さい。けれど、数えれば、宮廷の靴と同じくらい店を支えていた。
踵を直した荷運びの男。爪先を縫い直した少年。底に穴の開いた配達の靴。名前を見れば、どの靴だったか、どこを歩く人だったかを思い出せる。宮廷の靴の陰で、この人たちの靴は、一足も約束の日を外さなかった。
ミレイユは、宮廷の靴の差し引きを書いた紙の端と、売上の頁の修理の行を、手帳の上で開いたまま並べた。
戸口の鈴が鳴った。帽子店を閉めたアニエスが、夜の挨拶のついでに顔を出したのだった。
「数えてるわね」
「宮廷の靴の、残りを」
アニエスは手帳を覗き込み、紙の端の数字を指でなぞった。
「七週間で、七銀貨と少し。ひと月の家賃にも、届かないわね」
「……はい」
「宮廷の仕事をした店、っていう話は、使っていいのよ。お客様に聞かれたら、言えばいい。嘘じゃないんだから。でも、それで家賃は払えない。家賃を払うのは、こっちの行」
アニエスの指が、売上の頁の、修理の銅貨の行を叩いた。
ミレイユは、二つの頁を見比べた。宮廷の靴の計算に残ったのは、数字だけではない。記録紙の四つの欄。受注票の、どう見られたいかの欄。線を消す場所の選び方。どれも、手帳の数字には書けない。
「次の家賃の期日、覚えてる?」
「覚えています。今度の分は、もう袋に分けます」
アニエスは頷き、それ以上は言わずに帰っていった。
ミレイユは布袋から十二枚を数え、家賃の小さな袋に移した。残りの銀貨が、急に少なく見えた。
それでも、四枚は残った。見本の革を一枚、買い足せる。次に来る誰かの靴のために。
翌日の昼前、ユリウスが店に来た。
上に出した案に、調達局の写しと店の控えが同じものだという確認を添えたい、ということだった。ミレイユは控えを出し、二人で作業台の上に並べた。ユリウスは一行ずつ指で追い、写し違いがないことを確かめて、手帳に印を付けた。
確認が終わると、ミレイユの方から尋ねた。
「本人からの報告の項目は、上に出していただけたのですか」
「出しました。返事は、まだです」
ユリウスは、それ以上を付け足さなかった。いつ返事が来るのかも、どうなりそうかも言わない。分からないことを、分からないままにしておく人だった。
「分かりました。ありがとうございます」
それでも、ユリウスはすぐには立たなかった。
「一つ、先にお伝えしておくことがあります」
「はい」
「今回の結果で、すぐに多くの注文が出ることは、約束できません。次の審査がいつになるか、どの規模になるかも、決まっていません。決まった時は、参加の条件はすべての工房に同じように公開されます。この店だけに先に知らせることは、できません」
ミレイユは、黙って聞いた。
ユリウスは、手帳を閉じて膝に置いたまま話した。書いてあることを読み上げているのではなく、自分で確かめてきたことを言っているのだと、ミレイユには思えた。
合格の書面を読んだ日の、拍子抜けの気持ちを思い出した。心のどこかで、それでも次があるのではないかと、待っていた自分がいた。
ユリウスは、できないことだけを並べていた。できると言えることが、何もなかったからだろう。それを飾らずに言われたことが、不思議と嫌ではなかった。
ミレイユは、受け取り棚の方を見た。札の付いた修理の靴が並んでいる。明日渡す約束の札が、二枚。
「宮廷の仕事を、待つつもりはありません」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「次の審査があれば、その時にまた考えます。それまでは、この棚のお客様の仕事を続けます。宮廷の靴で覚えたことは、ここの靴でも使えるので」
ユリウスは、少しだけ間を置いた。
「それが、いいと思います」
それだけ言って、帽子を取った。
戸口へ向かう途中で、ユリウスの目が一瞬、受け取り棚の札に留まった。三角と丸の印。どこを歩く靴か、を書いた札。何を思って見たのかは、ミレイユには分からなかった。
鈴が鳴り、ユリウスは裏通りを表の方へ歩いていった。
その次の日、昼過ぎに戸口の鈴が鳴った。
顔を上げると、エステルが立っていた。紺の勤めの服ではない。淡い色の、膝下まで丈のある普段の服で、髪も宮廷で見た時より緩くまとめている。
「今日は、お休みなんです」
「いらっしゃいませ。どうぞ、お掛けください」
ミレイユが椅子を勧めると、エステルは腰を下ろし、膝の上で両手を重ねた。店の中を、ゆっくりと見回す。受け取り棚の札。七歩の通路。作業台の上の木型。
「宮廷の靴のことでは、ありません」
「はい」
エステルは、少し言いにくそうに続けた。
「私の、休みの日の靴を、作っていただけないかと思って。自分のお給金で」
「休みの日の靴を」
「宮廷の靴を履くようになってから、休みの日の足元が、急に気になってしまって。勤めの靴より、自分の靴の方が古いなんて、おかしいでしょう」
エステルは少し笑った。けれど、その目は冗談を言っている目ではなかった。
ミレイユは、エステルの足元を見た。
普段の服の裾から、古い靴が覗いていた。茶色の革は丁寧に磨かれているが、踵の外側がすり減り、爪先の縫い目が一か所、ほつれかけている。
宮廷の靴ではない。誰にも決められていない、この人のための一足だった。
ミレイユは受注票を一枚取った。名前。用途。予算。その下に、どう見られたいか、の欄がある。宮廷の靴の時には、まだなかった欄だ。
もう一つの椅子を引いて、エステルの向かいに座った。同じ高さで、話を聞くために。




