第21話 履いてから始まる仕事
姿見は、宮廷から戻ったその日の夕方に、アニエスの店へ返した。角に当てた革を外し、毛布を畳んで渡すと、アニエスは鏡の面を袖で一度拭き、割れてないわね、とだけ言った。店に戻り、往復の運び賃十五銅貨を仕入れの頁に書いた。
翌朝から、ミレイユは本製作に入った。
まず、覆いの縁を下げる。仮合わせで手帳に書いた位置に、指一本分の印を付け、縁の線を引き直す。光る場所が、裾から見える幅の中に残っているかを定規で確かめてから、残しておいた革から、覆いを裁ち直した。縁を折り返し、細く縫う。片手で開く時に引っ張られる覆いの端は、外れないように、内側で何度も重ねて縫い留めた。
甲を吊り込み直し、底を本付けする。踵と底の作りは、試作のままだ。底の外側は、減ったらそこだけ張り替えられるように、縫い目を外から追える形にしてある。
昼のあいだは修理の札を片付け、宮廷の靴は朝と夜に進めた。受け取り棚の約束は、一つも後ろへずらさなかった。
三日目に、調達局から書面が届いた。試用は納品の日から勤めの日に履くこと。そのあいだに式典の長い日を一日含めること。報告は本人が記録して出し、それを受けてから検収すること。
ミレイユは、報告のための紙を作った。何時間履いた後か。どの動きの時か。左か右か。どこが、どうなったか。四つの欄の空白を広く取り、下の方に、手入れのやり方を書いた。乾いた布で埃を払い、月に一度、薄く油を入れること。底の外側が減ってきたら、そこだけ店で張り替えること。
六日目の夜、最後の底縫いの糸を締めた。木型から外し、通路に置いて、自分で一歩下がる。姿見はもうない。それでも、低く構えた灯りの下で、縁の縫い目が細く光るのは分かった。
七日目の朝、黒い靴は仕上がった。
受け取り棚には置かなかった。布で包み、手入れの紙と報告の紙を添えて、そのまま東棟へ持っていった。
控えの間でエステルに履いてもらい、廊下を一往復だけ歩いてもらう。覆いを片手で開き、閉じる。立ち番の姿勢で裾を下ろしてもらうと、濃紺の布は、もう縁に引っかからなかった。エステルは裾を二度払うように動かして確かめ、小さく頷いた。ミレイユは底を指して、張り替えのできる場所を見せた。
「減ったら、ここだけです。靴ごと替えなくて済みます」
「支給の靴は、半年で駄目になりました」
「半年経ったら、一度見せてください」
引き渡しの紙に係の印をもらい、ミレイユは手ぶらで門を出た。
店に戻ると、受け取り棚には、いつもどおり修理の靴が並んでいた。その中に、あの一足だけがない。店を出ていった靴は、これが初めてではない。それでも、棚の端が少しだけ広く見えた。
四日後、書面で呼び出しがあった。
控えの間で待っていると、エステルが報告の紙を持って入ってきた。足元は、納品した黒い靴だった。
「昨日が、長い日でした。朝から、夜の片付けまで」
「お疲れのところ、ありがとうございます」
「書くのは、立ち番の合間にできました。思い出してから書くと、どこだったか分からなくなるので」
エステルは紙を差し出した。空欄は、エステルの字で埋まっていた。小さく、まっすぐな字だった。
――一日目。四時間。立ち番。特になし。
――二日目。六時間。立ち番と案内。特になし。
――長い日。十時間を過ぎた頃。午後の着替えの後、控室の階段を下りる時。左。踵寄りの内側、覆いの端の裏。擦れる。赤くなった。
――短い日には、出ない。
ミレイユは、紙を読み返した。一日目と二日目の欄は短い。長い日の欄だけが、小さな字で行をはみ出していた。何時間後か。どの動きか。左右。どこが。全部、書いてある。紙の欄を作ったのは自分なのに、埋まった紙は、自分には書けないものになっていた。
「見せていただいても、よろしいですか」
エステルが靴を脱ぎ、左の踵を差し出した。内側の、覆いの端が届くあたりに、かすかに赤い跡があった。
ミレイユは靴の中に指を入れた。覆いの端の裏。外れないように何度も縫い留めたところが、指先に硬く当たった。
自分が足した縫い目だった。片手で開いても外れないように、と重ねた糸が、長い日の終わりの、むくんだ足には、重ねた分だけ厚かった。
前にも、同じことがあった。ポーラの靴で、裏から足した革の縁が、夕方の足にだけ当たった。あの時もポーラは、いつ、どこが、と細かく言い分けてくれた。履く人にしか分からないことが、今も紙の上に並んでいる。
「このまま、一晩お預かりしてもよろしいですか。縫い留めの裏を薄くして、内側に柔らかい革を一枚入れます。明日の朝、お返しします」
「でも、お代は。作り直しは、そちらの負担になると伺いました」
「これは作り直しではありません。履いていただいてから直すところまでが、私の仕事です。お代はいただきません」
エステルは少し考えてから頷いた。
「今日は、前の靴で勤めます」
エステルは脇の包みから、銀の花の付いたいつもの靴を出して履き替えた。ミレイユは黒い靴を布で包んだ。扉の外の係に、一晩預かって翌朝返すことを伝え、預かりの紙に印をもらった。
店に戻ると、受け取り棚の札を先に片付けた。約束の修理を二足渡し終えてから、ランプを灯した。
まず、覆いの縫い留めを解いた。何度も重ねた糸を、二回分だけ残して抜く。その裏の革を、刃で薄く漉いた。それから柔らかい山羊革を小さく裁ち、縁を紙のように薄くして、内側に当てた。指を入れて、何度もなぞる。どこにも角が触れない。
山羊革の切れ端一枚、店の負担、と仕入れの頁に書いた。代金をもらわない仕事でも、使った革は帳面に残す。
覆いの端を片手で何度も引いてみた。二回分の縫い目でも、外れなかった。外れないことと、重ねすぎないこと。その間の数を、ようやく知った気がした。
翌朝、東棟の控えの間で靴を返すと、エステルは履いて、控室の階段を三段下りて、上がってきた。
「当たりません」
預かりの紙に、返却の印をもらった。
ミレイユは報告の紙を受け取り、エステルの字の下に、自分の字で書き足した。――長い日の当たり。覆いの縫い留めを減らし、裏を漉き、内側に山羊革を当てる。一晩預かり、翌朝返却。
紙の上で、エステルの字とミレイユの字が、交互に並んだ。
係に呼ばれて、ユリウスが入ってきた。報告の紙を手に取り、上から下まで読んだ。
「この紙の写しを、調達局に一枚いただけますか」
「はい。店の控えと、二枚作ります」
ユリウスは、紙の欄の並びを指でなぞった。
「評価の書面に、本人からの報告という項目を加える案を、上に出してみます」
「決まるのですか」
「出すだけです。決まるかどうかは、私には言えません」
ミレイユは頷き、当たりの原因を口で説明した。外れないように重ねた縫い留めが、長い日の足には厚かったこと。短い日には出なかったこと。直した場所と、減らした糸の数。
ユリウスは聞き終えると、手帳に二行ほど書いた。原因が工房の側にあったことも、そのまま書いたのだろうと思った。それを隠したいとは、思わなかった。
その日の夜、ミレイユは報告の紙を二枚、丁寧に写した。エステルの字の形までは写せない。けれど、何時間、どの動き、左右、どこが。その順番だけは、崩さなかった。
翌日の昼、局の使いの少年が、店の戸口に封書を届けに来た。
少年は受け取りの印をもらうと、すぐに駆けていった。ミレイユは作業台の前で封を切った。
――試作一足、審査の結果、合格とする。
その一行を、ミレイユは二度読んだ。指先が少し震えた。宮廷の名で、裏通りの小さな店の靴が、合格になった。
続きを読む。
――ただし、今回の発注は試作の一足のみとし、追加の注文は現在予定していない。検収および代金の支払いは、下記の日に行う。
記された日付は、二日後だった。
ミレイユは、紙を作業台に置いた。
合格した。けれど、次の注文はない。宮廷の靴の仕事は、この一足で一度終わる。
提案の紙を書いた夜。面談の半刻。鏡の前の沈黙。作り直しの二銀貨半。講習。捨てた甲革。全部が、この一足のためだった。それでよかったのだと思う気持ちと、それだけなのかと思う気持ちが、どちらも本当だった。
胸の奥で、喜びと拍子抜けが、同じ大きさでぶつかった。どちらを先に感じればいいのか、分からなかった。
受け取り棚では、修理の靴が札を下げて待っている。踵の減った荷運びの靴。底の剥がれかけた子どもの靴。
売上の頁を開きかけて、やめた。代金が入るのは、検収の日だ。まだ書くものはない。代わりに、手帳の予定の欄に、二日後の日付と、検収、とだけ書いた。
ミレイユは封書を手帳に挟み、一番上の札を取った。二日後までに、やることはいくらでもあった。




