第20話 鏡の前の合格
朝のうちに、アニエスの知り合いだという運び手が、手押し車を引いて店の前に来た。
姿見は前の晩のうちに毛布で包み、角に端切れの革を当てておいた。運び手と二人で手押し車に載せ、縄を掛ける。その横に、布で包んだ試作の一足を抱えて、ミレイユは宮廷へ向かった。
石畳の継ぎ目を越えるたびに、車の上で鏡がかすかに鳴った。そのたびに、ミレイユは縄を押さえた。割ったら弁償。アニエスの声が、頭の中で何度も聞こえた。
東棟の門で名前を告げると、係が書面の控えを確かめた。姿見を一枚、仮合わせのあいだだけ控えの間に持ち込むこと。その届けは、二日前に調達局の受付へ出してあった。同じ書面で、エステルには謁見の日の礼装で来てほしいと頼んであった。
「持ち込みは、届けのとおり一枚ですね。終わったら、同じ道でお持ち帰りください」
係は届けの紙に印を押し、運び手と一緒に、鏡を廊下の端まで運ぶのを手伝ってくれた。
控えの間には、まだ誰もいなかった。壁際には、前と同じ背の高い鏡がある。けれど、その鏡は壁に付いていて、立ち番の位置からは斜めにしか映らない。正面に立てば近すぎて、前を通る来客の距離からどう見えるかは分からない。
この前、エステルは壁の鏡の前で裾を持ち上げ、黙って自分の足元を見ていた。壁の鏡の前では、列に立つ時の見え方は分からない。前を通る来客の目に、どう映るのか。それを、本人と一緒に見たかった。
ミレイユは、持ってきた姿見を、部屋の奥に立てた。立ち番の位置から数歩離れた正面。裾から足元までが、まっすぐ映る高さに傾きを合わせる。
運び手は帰りの時刻を確かめて、門の外へ出ていった。
ミレイユは、姿見の毛布を外した。
鏡の中に、空の控えの間が映った。磨いた木の床と、長椅子と、窓の光。まだ誰も立っていない場所だった。
時刻ちょうどに、エステルが入ってきた。後ろに、ユリウスが続く。
エステルは、この前の紺ではなく、濃紺の礼装を着ていた。謁見の日の服だ。裾は、床から指三本分ほど上で止まっている。
「今日は、この服で、とお願いされていたので」
「ありがとうございます。この服で見ていただかないと、意味がないと思って」
エステルは長椅子に座り、自分の靴を脱いだ。ミレイユは布包みを解き、試作を床に揃えた。黒い甲に、覆いの縁の線が一本。底は、まだ仮に留めてある。
エステルは試作を見下ろしたが、何も言わずに足を入れた。ミレイユは紐を結んだ手元と、踵の収まりだけを確かめた。ユリウスは窓際に立ち、手帳を開いていた。
「どこから、お見せすればいいですか」
「まず、廊下を歩いていただけますか。それから、列に立つ時の姿勢で止まっていただいて、最後に、脱いだり履いたりを」
係が扉を開けた。エステルは許可された区画の廊下を、謁見の間の脇まで歩き、引き返してきた。石の上の足音は、前の試作と同じように揃っていた。踵の作りは変えていない。ミレイユは後ろから、裾の揺れと靴の位置を見ていた。歩くたびに、裾の縁が甲の半分のところまで下り、また上がる。爪先の足した分は、歩幅の邪魔をしていなかった。
二往復目、エステルは歩く速さを少し上げた。来客を案内して長い廊下を往復する、と最初の面談で聞いていた。その時の歩き方なのかもしれない。裾の下で、爪先の線が細く前へ出た。
控えの間に戻ると、エステルは立ち番の位置に立ち、裾を整えた。
姿見の中に、濃紺の裾と、黒い靴の甲が映った。裾の下から覗く甲の半分。その中ほどで、覆いの縁がわずかに高くなっている。窓の光が、縫い目の上に細く溜まった。
エステルは、しばらく動かなかった。
ミレイユも、何も言わなかった。この前は、ここで説明を始めてしまった。黙っているのは、思ったより難しかった。見てほしい場所を指で差したくなる手を、体の前で握った。
「脱いでみても、いいですか」
「はい。お勤めの時と同じように、急いでいる時のやり方で」
エステルは立ったまま、片手で裾を軽く持ち上げ、もう片方の手を覆いの縁に掛けた。指は引っかからなかった。覆いが外へ開き、結び目を引くと、紐がほどけた。片手のまま、靴が脱げた。
履き直して、もう一度。二度目の途中で、エステルの手が止まった。
裾を下ろした時、濃紺の布の縁が、覆いの盛り上がりに一度だけ引っかかった。エステルは指で裾を払った。
「ここで、少しだけ」
ミレイユは膝をつき、引っかかった位置を見た。縁の一番高いところと、裾が下りてくる線が、ちょうど重なっている。
「縁の線を、指一本分、下げてもよろしいですか。光る場所は、裾から見える中に残ります。引っかかる高さからは外れます」
エステルは姿見の中の足元を見て、それから自分の裾を見た。
「お願いします」
扉の外で、係が砂時計を置き直す音がした。
ユリウスが、手帳を閉じて一歩前に出た。
「色、爪先の形、踵の高さ。いずれも規定の範囲です。甲の線と覆いの位置も、届けられた変更案のとおりです。規定と慣習は、満たしています」
「ありがとうございます」
それで、要件は済んだ。前の時なら、ミレイユはここで説明を続けていただろう。底の作り、覆いの裏を漉いた厚み、結び目の向き。言いたいことは、いくらでもあった。
ミレイユは、口を閉じた。
ユリウスが確かめたのは、規定だ。この靴で列に立つかどうかは、エステルが決めることだった。
ミレイユは、エステルを見て待った。
エステルは姿見の前で、体の向きを少しだけ変えた。正面ではなく、わずかに斜めに。謁見の間の脇で、列に並ぶ時の向きだった。裾を整え、両手を体の前で重ねる。鏡の中で、黒い甲の縁が、他の誰かの靴と並ぶはずの高さで光った。
長く、エステルは鏡を見ていた。前の時と同じくらい、長く。
「……これなら、あの列に立ちたいです」
静かな声だった。前の時と同じ、鏡の前の静けさの中で、今度は言葉が出てきた。
ミレイユは、すぐには声が出なかった。胸の奥で何かが大きく動いて、それを両手で押さえるようにして、頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げると、手が先に動いていた。手帳を開き、覆いの縁の、引っかかった位置を書く。裾が下りてくる線。指一本分。濃紺の布。
嬉しいのは、あとでいい。忘れてはいけないのは、こちらだった。
扉が二度、軽く叩かれた。
エステルは長椅子で試作を脱ぎ、前の時と同じように、両足を揃えて差し出した。それから自分の靴を履き、一礼して、勤めへ戻っていった。
ミレイユは揃えられた試作を受け取り、布で包んだ。来る時と同じ一足なのに、包む手は前の時より速かった。
姿見を毛布で包み直して廊下へ出ると、ユリウスが待っていた。
「本製作に入って構いません。縁の線を下げる変更は、ご本人の申し出として、今日の記録に付けておきます」
「ありがとうございます。一つ、お願いがあるんです」
「伺います」
ミレイユは、店で考えてきた紙を出した。
「納品したら、すぐに検収するのではなく、エステルさんに実際のお勤めで何日か履いていただけませんか。その上で、ご本人の言葉を聞いてから、検収していただきたいんです。合わないところがあれば、そのあいだに直します」
ユリウスは紙を読み、少し考えた。
「試用の日数と、報告の受け方を、書面で決めましょう。納品の日は、本製作の日数から逆に数えて、そちらから出してください」
「試用の中に、式典の長い日を、一度は入れていただけませんか。短い日には出ない当たりが、あると思うので」
ユリウスは、紙の余白に何かを書き足した。
「勤めの予定は、こちらで確かめます。報告は、ご本人に書いてもらうのがいいでしょう。時間と、どの動きの時か」
「左右と、どこが、も」
「入れます」
ミレイユは、頭の中で日数を数えた。
「縁を下げる手直しと、本付けまで入れて、七日あれば仕上げられます。修理のお客様の約束も、動かさずに済みます」
「代金に含まれる修正は、今回の作り直しで使いました。ここから先の作り直しは、工房の負担になります」
「承知しています」
ユリウスは頷き、手帳に書いた。それから、ペンを止めずに言った。
「本人の言葉を待つのは、規定にはない手順です」
それだけだった。良いとも悪いとも言わなかった。ミレイユは、その一行が手帳のどこに書かれたのかを見ようとはしなかった。
門の外では、運び手が手押し車を止めて待っていた。二人で姿見を載せ、縄を掛ける。布包みの試作は、自分の腕に抱えた。往復の運び賃、十五銅貨を数えて渡した。あとで、仕入れの頁に書く。毛布の端が風にめくれ、鏡の角に、空の一部が映った。
ミレイユは毛布を押さえ、端を縄の下にたくし込んだ。
帰ったら、まずアニエスに鏡を返す。それから、縁の線を、指一本分下げる。




