第19話 結び目の場所
イリーナの工房の作業台には、ミレイユのほかに受講者が二人いた。仕立て屋の若い職人と、手袋を縫うという年配の女性だった。三人とも、講習料の受け取りの紙を、台の端に置いていた。
台の上に置かれたのは、型紙ではなく、白い紙と細い炭だけだった。壁際の棚には木型が並んでいたが、イリーナはそれに一度も触れなかった。
「線を足す前に、どこを削るかを決めて。見える場所は、客の裾が決める。見えないところに手間をかけても、灯りの下では誰も気づかない。手間をかけるのは、見える幅の中の、一番高いところ一つ」
ミレイユは、最初の紙に甲の線を引いた。気づけば、縁に沿ってもう一本、飾りの線を足していた。
イリーナが紙を覗き込み、炭の先で足した線を軽く叩いて、何のため、と聞いた。
「……光を受けるように、と思って」
「一本で受けられないなら、二本でも受けられない。高さの方を直しなさい」
隣では、仕立て屋の職人が襟の線を三本から一本に減らされていた。手袋の女性は、刺繍の位置を指の付け根から手首へ移していた。品物は違っても、言われていることは同じだった。
一回目で教わったのは、そこまでだった。裾の長さと、見える甲の幅。列で見た時、飾りがどの高さに並ぶか。線を増やすより、消す場所の選び方。どう引くかの細かな手順を尋ねると、それは型紙の話、と短く返された。
あいだの二日は、店で修理の札を片付けながら、夜に線を引いた。引くたびに、消す線の方が増えていった。
三日後の二回目、ミレイユは自分の紙の端に、エステルの裾を書き込んだ。床から指三本分。その丈で見えるのは、甲の半分。その幅の中に、一番高いところを置く。
引いてみると、今の木型の爪先では、高いところが裾の陰に入ってしまう。爪先の線を、ほんのわずか長く見せなければならなかった。
イリーナが後ろで足を止めた。紙を見て、しばらく黙った。
「それは、あなたの客の線ね」
それだけ言って、次の台へ移った。
規定の「丸みのある細身」の範囲を出ないことは、要項の写しと図を並べて確かめてあった。翌日、ミレイユは木型を抱えてベルナールの工房へ行った。爪先の線を図で示すと、ベルナールは木型の先を親指でなぞった。
「削るんじゃなくて、先に少し足して、細く見せる方だな」
「はい。見える長さを、少しだけ」
「誰に習った線だ」
「習ったのは考え方だけです。線は、履く方の裾から引きました」
ベルナールはそれ以上聞かず、木型を作業台に置いた。
「四十銅貨。三日」
発注の紙に、受け取りの日付が書き込まれた。
木型が仕上がるまでの三日、ミレイユは端切れの革で、甲の覆いを試した。
最初の案は、細い飾り帯だった。甲を斜めに横切る帯を、片側の小さな留め金で留める。帯の縁が、ちょうど見える幅の一番高いところを通る。古い木型に当てて作業台に立て、少し離れて見ると、黒い革に一本の線が斜めに走っていた。思った以上に、美しかった。
ミレイユは、その帯を自分の手で外してみた。
留め金は小さい。爪の先でつまみ、帯を引いて、金具から外す。片手では外れなかった。立ったまま両手を使うと、前かがみになる。椅子に座って、ようやく外せた。砂時計を置いてもう一度試すと、紐の靴の倍はかかった。
エステルは、式典の日には午後に装いを替えるため、控室で二度着替えると言っていた。限られた時間の中で、ほかの女官と並んで。
留め金を大きくすれば、片手でも外せるかもしれない。けれど、それでは甲の一番高いところに金具が来る。灯りが溜まるのは、革の線ではなく金具になる。帯を太くすれば、エステルの言った軽さが削れる。
ミレイユは、帯を木型から外した。美しいことと、この人の一日に合うことは、同じではなかった。
次の案は、紐を覆う甲の覆いそのものを使うことだった。覆いは、第一の試作にもある。その縁を真っすぐに切るのではなく、見える幅の一番高いところで、わずかに盛り上がる線に裁つ。縁を折り返して細く縫えば、縫い目が灯りを受ける。新しく足すものは、何もない。
一度目は、盛り上がりの位置が爪先に寄りすぎた。裁ち直した二度目の覆いを当て、窓ガラスに映してみる。帯ほどの華やかさはない。けれど、線は甲の形から浮いていなかった。
作業台の端に、使わなかった甲革が二枚重なった。帯の分と、縁の高さを誤った分。ミレイユは仕入れの頁に、甲革二枚、店の負担、と書いた。
決めた覆いの線で、作り直し用の黒い子牛革を一枚買い、甲と覆いを裁った。その代金も、同じ頁に書き足した。
夕方、使いの帰りだというポーラが、受け取り棚の靴を見に寄った。屋敷の仲間の修理靴が、一足仕上がっている。
預かってきたという三十銅貨を受け取って靴を渡し、売上の頁に付けてから、ミレイユは少し迷った。宮廷の勤めのことは、宮廷の人にしか聞けない。けれど、靴を脱ぎ履きしながら働く人の手なら、目の前にもある。
ミレイユは尋ねた。
「お屋敷で、上履きに替える時は、どうしていますか。急いでいる時」
ポーラは、自分の足元を見た。
「急いでいる時は、片手で、立ったまま脱ぎます。もう片方の手は、たいてい何か持っているので」
「紐の上に覆いがある靴なら、どうでしょう」
「覆いが固いと、指の爪が割れます。めくる時に、爪を引っかけるので」
ポーラは片足を少し上げ、自分の靴の紐の端をつまんだ。一度引くと、結び目はほどけた。使ったのは、片手の指二本だけだった。
「今、一度で」
「結び目を、引けばほどける向きにしておくんです。奥様方の靴は、もっと面倒ですけど」
ミレイユは手帳に書き取った。片手。立ったまま。固い覆いは爪を割る。結び目の向き。
「ありがとうございます。助かりました」
お礼に、作業台の端切れから細い革紐を一本切り出して渡した。
「こんなことで、いただけません」
「答えをもらったのは、私です」
ポーラは少し困った顔をしてから、革紐を受け取り、買い物袋の口に結んだ。
その晩、ミレイユは覆いの縁にもう一度手を入れた。縁の裏を薄く漉き、指が掛かるところだけ柔らかくする。外側へ、片手で開く向きに。紐の結び目は覆いの外側の端に寄せ、引けばほどける形に決めた。
見た目は、何も変わらない。けれど、エステルの指は、たぶんこの違いを知る。図の余白に、覆いの裏を漉いた厚みと、結び目の向きを書き足した。見えないところの工夫は、書いておかなければ、自分でも忘れてしまう。
家賃の期日の前に、ミレイユは帽子店へ十二銀貨を持っていった。
アニエスは数えて受け取り、自分の帳面に記した。
「期日どおりね」
「それと、お願いがあるんです。お店の姿見を、少しのあいだ貸していただけませんか」
アニエスは、店の奥の背の高い鏡に目をやった。
「あれは重いわよ。どこに運ぶの」
「まず、私の店に。それから、仮合わせの日に宮廷へ。並んだ時にどう見えるか、ご本人と一緒に、最初から確かめたいんです」
「割ったら弁償。宮廷へ運ぶ日は、知り合いに声をかけておくわ。運び賃は、あなた持ち」
「はい。それと、帽子箱の留め具が二つ、外れたままでしたよね。直させてください」
アニエスは、仕方ない、という顔で頷いた。
店に戻り、手帳の栞を挟んだ家賃の頁に、支払いを書いた。別の袋に分けておいた十二銀貨は、これで空になった。手元に残った銀貨を数え、アニエスの紙の印の週と見比べる。足りる。けれど、余りはほとんどない。
その夜、帽子箱の留め具を二つ、外れた鋲を打ち直して付けた。蓋を何度か開け閉めして、留め具が片手で掛かるのを確かめた。
二日後、仕上がっていた木型を、ベルナールの工房へ受け取りに行った。爪先の線は、足された分だけ細く、長く見えた。ベルナールは木型の先を布で拭い、黙って差し出した。四十銅貨を数えて渡し、店に戻ってから仕入れの頁に書いた。
それから、ミレイユは裁ってあった甲を木型に当て、縁の盛り上がりが、見える幅の中に収まっているかを確かめた。指三本分の高さに定規を当てる。一番高いところは、その線のわずか下に、ちょうど収まっていた。
甲を吊り込み、仮の底を留めた。踵と底の作りは、第一の試作と同じ。エステルが、今のままでいいと言った部分だ。
夕方、アニエスと二人で姿見を運び込み、通路の奥の壁に立てかけた。七歩の通路の向こうに、作業台と、自分の姿が映る。
「帽子より先に足元が映る置き方なんて、うちの店ではしないわね」
「宮廷の廊下では、足元から見る方もいると思うので」
アニエスは鏡の縁の埃を指で払い、割らないでよ、ともう一度言って帰っていった。
ミレイユは試作を床に置き、一歩、二歩と下がった。
鏡に映った靴は、立った人が少し離れて見下ろす距離にあった。宮廷の廊下で、来客がエステルの足元を見る時も、たぶんこのくらい遠い。
黒い甲に、覆いの縁が一本。灯りを低く構えると、見える幅の一番高いところで、縫い目が細く光った。
これがエステルの列の中で光るかどうかは、まだ分からない。それを決めるのは、自分ではなかった。




