第18話 美しい線を借りに行く
翌日の昼過ぎ、アニエスが帽子の箱を一つ抱えて店の戸口に立った。
「難しい顔をしてるわね。宮廷の靴?」
ミレイユは作業台の上の紙から顔を上げた。甲の線を何本も引いては消した跡で、紙の中ほどが灰色にけば立っている。
「線が、決まらないんです。列の高さに揃えたいのに、何を足しても、靴の上で浮いてしまって」
アニエスは箱を椅子に置き、前掛けの隠しから一枚の刷り物を出した。
「明日から、組合の会館で公開の展示があるの。職人の作品を並べる会。帽子の部もあるから、私もこれを一つ出すのよ」
刷り物には、出品の部が並んでいた。帽子。手袋。仕立て。靴。礼装靴の部には、上級の資格を持つ職人の名がいくつか書かれている。
「見るだけなら、ただ。自分の手元の図ばかり眺めていても、出てこない線はあるわ」
「……行ってみます」
「帽子の部も見ていってね。褒め言葉は受け付けてる」
アニエスが帰ったあと、ミレイユは棚から図案の束を下ろした。父の工房で描いたもの。この店で描いたもの。底の厚み、踵の芯、紐の通し方。踵の減り方を写した図に、紐の穴の位置を何度も直した図。どれも、歩くための図だった。甲の線を、遠くからどう見せるかを考えて引いた図は、一枚もなかった。
束の一番上に、第一の試作の図があった。黒い甲の中央に、細い縫い線が一本。ベルナールの太い指が、一瞬だけ止まった線だ。
束をめくる手が、その図の上で止まった。
ミレイユは束を閉じ、戸口に札を一枚下げた。――明日の午前、休みます。
職人組合の会館は、表通りから一本入った石造りの建物だった。
広間に入ると、長い台が何列も並び、その上に帽子や手袋や布地が置かれていた。来場者は多くない。指先に染みや胼胝のある人たちが、台の前で足を止め、黙って見ている。アニエスの帽子は、入口近くの台にあった。灰色の羽根が一本、縁に沿って流れている。
礼装靴の部は、広間の奥だった。
台の上に、一足ずつ間を空けて靴が並んでいる。触れないように、と札が立っていた。ミレイユは端から順に見ていった。銀糸を甲いっぱいに刺したもの。宝石のような留め具を付けたもの。どれも手が込んでいて、美しかった。けれど、どれも、靴より先に飾りが目に入った。
四つ目の台の前で、足が止まった。
黒い礼装靴だった。飾りは、甲に一つだけ。それなのに、靴全体が静かに光って見えた。
爪先から踵へ、一本の線が流れている。爪先は細身だが、指の付け根のあたりでわずかにふくらみ、そこから甲へ上がる線が始まる。その線の途中に、小さな飾りが一つ置かれていた。
飾りを後から足したのではない。甲の線が、その飾りを受け止めるために、そこで少しだけ高くなっている。飾りは形の中に溶けていて、取り去れば、線の方が何かを失って見えるだろうと思えた。
台の真上の窓には、薄い布が掛けてあった。光は布を通って斜めに落ち、黒い革の、甲の高いところにだけ溜まっている。置き方まで、計算されていた。
店の棚にある、第一の試作を思い出した。平らな甲の真ん中を、細い縫い線が一本、まっすぐに走っている。線は確かに光を受けた。けれど、甲そのものはどこも高くなっていない。光は、縫い目の上を細く滑っていくだけだった。あの線は、出来上がった形の上に、後から置いたものだったのだ。
ミレイユは、気づくと手帳を開いていた。
ペンを持った手が、紙の上で止まる。この線を写せば、明日にでも宮廷の靴の図ができるかもしれない。
ミレイユは、ペンを置いた。
これは、この靴を作った人の線だ。エステルの足と、エステルの裾と、エステルの立つ列のために引かれた線ではない。
台の端の札に、作り手の名があった。
――イリーナ。
背後から、描き写さないの、と声がした。振り返ると、女性が一人立っていた。年は三十を少し過ぎたくらい。濃い色の作業着の袖を、肘の上まできっちりと捲っている。手の甲に、古い刃物の傷が幾筋か白く残っていた。
「さっき、手帳を開いたでしょう。皆そうするの。描き写して、帰っていく」
「……写しても、私のお客様の靴にはならないと思ったので」
女性は少しだけ眉を上げ、台の靴とミレイユを見比べた。
「それは私の靴。何を見て、足を止めたの」
「飾りが、後から付いたように見えなかったので」
女性は、すぐには答えなかった。黒い靴の甲に目を落とし、それから小さく頷いた。
「そう見えたなら、半分は伝わってる。イリーナよ」
ミレイユは名乗った。裏通りで靴の店をしていること。今、宮廷の女官の仕事靴を手がけていること。それ以上は言わなかった。
「伺ってもいいですか。この甲の線は、どうやって決めたんですか」
イリーナは台の靴を見下ろした。
「これは見せるために作った靴だから、見て分かることは話すわ。礼装靴はね、近くで見られるより、遠くから、列の中で見られることの方が多いの。一足だけ美しくても、並んだ時に線が揃わなければ意味がない」
ミレイユは息を詰めた。
「……並んだ時に、揃う線」
「そう。それと、灯り。燭台は低いから、甲の高いところに光が溜まる。だから飾りは、一番高いところに置く。その高いところを作るのは、飾りじゃない。甲の線そのものよ」
「裾とは、どう合わせるんですか」
「この靴は、裾から見える幅の中に、線の一番高いところが来るようにしてある。どう決めるかは、また別の話」
淡々とした説明だった。けれど、どれもエステルの言葉と重なった。列の中で揃う光。低い燭台。裾から覗く、甲の半分。
「その線の引き方を、教えていただけませんか」
イリーナは首を振った。
「型紙と細かな技法は、無償では渡さない。私が十五年かけた分よ。あなたも職人なら分かるでしょう。手で覚えたものを通りすがりに渡したら、自分の仕事の値段を下げることになる」
言い方に遠慮はなかった。けれど、見下す響きもなかった。硬い掌で台の縁を押さえたまま、イリーナはミレイユの目を正面から見ていた。
「……はい」
分かった。さっき自分も、写しかけたペンを置いたのだ。
イリーナは台の脇の箱から、紙を一枚取った。
「ただ、私の工房で、意匠の基礎の講習をしてる。線の考え方と、引き方まで。一回六十銅貨。二回で一通り。型紙は渡さないけど、自分の客の線を自分で引く方法なら、持って帰れる」
受け取った紙には、日付が二つ書いてあった。明後日と、その三日後。
ふと、問いが浮かんだ。宮廷の試作には、ほかの工房も選ばれている。イリーナの工房は、そのうちの一つなのだろうか。
ミレイユは、それを口にしなかった。聞けば、相手は答えにくい。答えを知ったまま同じ机で線を習うのは、どこか筋が違う気がした。
イリーナも、宮廷の靴について、それ以上は何も聞かなかった。
会館を出ると、昼の鐘が鳴っていた。
講習の紙を握ったまま、ミレイユは石畳の端で立ち止まった。二回で一銀貨と二十銅貨。アニエスの紙のひと月先の週には、もう印が二つ付いている。次の家賃の期日も、遠くない。作り直しの材料も、これから買う。
それでも、ここで払わなければ、線は自分の手に入らない。アニエスに言われた授業料という言葉が、別の意味で胸に戻ってきた。
イリーナの工房は、会館から通りを二本隔てたところにあった。看板は小さく、戸口に講習の札が下がっている。応対に出た弟子らしい若い女性に、ミレイユは二回分を前払いした。一銀貨と二十銅貨。受け取りの紙に、名前と二つの日付が書き込まれた。
帰り道、表通りを行く人の足元が、いつもと違って見えた。踵の減り方より先に、裾と甲の境目に目が行く。歩くたびに覗く甲の幅は、人によって違った。指二本分の人も、ほとんど見えない人もいる。見える幅が違えば、光の溜まる場所も違うはずだった。
店に戻ると、札を外して午後の店を開けた。踵の減った仕事靴を一足、留め金の外れた靴を一足、約束の日付どおりに仕上げて渡した。客が途切れた夕方、帳面の仕入れの頁を開いた。講習料、一銀貨二十銅貨。前払い。それから作業台の上に、第一の試作の図を広げた。
細い縫い線を、指でなぞる。この線を考えた夜のことは、よく覚えている。余分な線を消すたびに靴が軽くなっていく気がして、嬉しかった。間違った図ではない。ただ、エステルの立つ場所の図ではなかった。
しばらく見て、裏返して伏せた。
白い紙を一枚、新しく広げる。あの黒い靴の線が浮かびそうになって、目を閉じた。思い出したいのは、あの線ではない。
エステルの声だった。裾は、床から指三本分。甲の半分しか見えない。低い燭台。皆と同じ高さに、何かが光っていてほしい。列の一人として、きちんと立っているように見えたい。
ミレイユは目を開け、ペンを取った。爪先から、ゆっくりと線を引き始める。
どこで高くすればいいのか、まだ分からない。線は途中で何度も止まった。それでも、さっきまでの線と違って、どこかへ向かおうとしていた。
ランプを灯すと、伏せた図の裏が、作業台の端で白く浮かんでいた。




