第17話 聞いたことと、聞き取ったこと
店に戻っても、ミレイユはしばらく布包みを解けなかった。
作業台の上に置いたまま、修理の客を一人迎え、受け取りの札を一枚渡した。その間も、包みは視界の端にあった。夕の鐘が鳴り、鎧戸を閉めて、ようやく布を開いた。
黒い靴が一足。甲に、細い縫い線が一本。
見たくなかった。けれど、見なければ同じことをまた繰り返す。
ミレイユは、作業台の端に重ねてあった紙の束を引き寄せた。面談の日から一度も崩していない束だった。条件の一覧を作った時に、全部移したつもりでいた。
一枚ずつめくる。採寸の紙。足の輪郭と寸法。一日の流れを書いた紙。夕方の熱、踵の流れ、立ち番の長さ。
一番下の紙の、端に、小さな字があった。
――同じ列の皆と、揃って見えるのが好き。
自分の字だった。エステルが言った言葉を、その場で書き留めたものだ。読み返すと、あの時のエステルの声まで思い出せた。私だけ違って見えるのは、困ります。
聞いていた。書いてもいた。
けれど、一覧を作った時、この一行を写さなかった。寸法でも、歩数でもなかったからだ。靴の形に関わることだけを抜き出したつもりで、靴の形にいちばん関わることを置いてきた。
聞いたことと、聞き取ったことは、違う。
ミレイユは受注票の束を取り、一枚を広げた。名前。靴の状態。修理の内容。予算。受け取りの日。三角と丸の印。どこにも、その人がどう見られたいかを書く場所はなかった。ポーラの時も、リュシーの時も。リュシーの靴の穴飾りを、相談もせずに省いたことを思い出した。
ミレイユはペンを取り、受注票の余白に線を引いて、新しい欄を書き足した。
――どう見られたいか。
小さな字では、また見落とす。だから今度は、大きく書いた。
翌朝、ミレイユは調達局宛ての書面を書いた。
何度か書き直した。言い訳に聞こえる言葉を消していくと、残ったのは短い文だった。
――先日の仮合わせで、試し履きをされた方のご希望を、私の聞き取りが不足していたため、靴の形に入れておりませんでした。作り直しの前に、もう一度だけ、半刻のお話を伺えないでしょうか。
書面の終わりに、理由として、聞き取り不足、とだけ書き添えた。
受付に預けてから二日後、使いの少年が返事を持ってきた。契約にある面談は作る前に一度だけだが、上に諮ったうえで、もう一度だけ半刻を認める。場所は前と同じ、東棟の控えの間。日付は、その二日後だった。
面談の日、ミレイユは採寸の紙を持っていかなかった。代わりに、白い紙を一枚だけ持った。いちばん上に、新しい欄と同じ言葉を書いておいた。
エステルは、前と同じように時刻ちょうどに来た。
「お時間をいただいて、ありがとうございます」
ミレイユは座る前に頭を下げた。
「先日は、申し訳ありませんでした。最初のお話で、エステルさんは大事なことをおっしゃっていたのに、私はそれを靴にしませんでした」
エステルは、何か言いかけて、やめた。代わりに、小さく首を横に振った。責めるでも、許すでもない仕草だった。
ミレイユは顔を上げ、最初に尋ねた。
「どの装いで、どんなふうに立ちたいか、教えていただけますか」
エステルは少し驚いた顔をした。それから、長椅子に腰を下ろし、考えるように手を膝の上で重ねた。
「謁見のある日は、この服ではなく、濃紺の礼装を着ます。裾が、床から指三本分ほど上です。だから立っていると、靴は甲の半分くらいしか見えません」
ミレイユは書いた。濃紺。裾は床から指三本分。甲の半分。
「謁見の間は、昼でも燭台が灯っています。灯りが低いので、甲が鈍く光るんです。列に並ぶと、皆の甲の同じ高さに、小さな光が並びます」
「その光が、揃っているのが」
「はい。私が好きなのは、それです」
エステルは少し考えてから、付け足した。
「銀の花でなくても、いいんです。重くて、裾に引っかかることもありますから。でも、灯りの下で、皆と同じ高さに、何かが光っていてほしい。列の一人として、きちんと立っているように見えたいんです」
ミレイユは、その言葉をそのまま紙に書いた。列の一人として、きちんと立っているように見えたい。
「踵や、底は」
「今のままで。あれは、本当に楽でした」
それから、エステルは少しだけ声を落とした。
「前の時、一度は言ったんです。でも、それ以上は言いませんでした。靴を作る方に、見た目のことをどこまで言っていいのか、分からなくて。足のことを聞かれていたので」
ミレイユは、ペンを持つ手を止めた。聞く順番を決めたのは、自分だった。足から先に聞けば、足のことを答える。
「言っていただいて、よかったです。これからは、最初に伺います」
扉が二度、叩かれた。ミレイユは紙を胸に抱えて礼を言った。今度の紙には、靴の形にいちばん関わることが、いちばん上に書いてあった。
その夜、ミレイユは作り直しの見積もりを書いた。
甲は裁ち直しになる。飾りの位置を変えるなら、甲の線そのものを引き直さなければならない。裾から見える甲の半分に、灯りを受ける線を通す。それには、爪先の線もわずかに変える必要がある。木型の爪先を少し削ってもらうとすれば、ベルナールに追加の加工を頼むことになる。
試しに、新しい白い紙に甲の線を描いてみた。裾から指三本分の高さに、横線を一本引く。その下に見える甲の半分に、灯りを受ける場所を置く。縫い線を二本にすると、ただの縞に見えた。甲の中央に小さな飾りを描き足すと、紐を覆う甲の覆いとぶつかった。何本描いても、線が靴の形から浮いてしまう。
ミレイユは描いた紙を脇にどけた。意匠はまだ決められない。決められないまま決めれば、また同じ失敗をする。今夜決めるのは、お金のことだけだ。
紙の上で数字を足していく。甲革の裁ち直し。飾りの材料。木型の追加加工、四十銅貨ほど、三日。手間を入れずに、材料と外注だけで二銀貨半ほど。
契約では、修正は一回まで代金に含まれる。今回が、その一回になる。
契約書の金額の行を、もう一度読んだ。代金の上限は十八銀貨。細部が決まった後に確定する。見積もりの十六銀貨から、上限まで上げる道は、紙の上では開いている。増えた分を、宮廷に払ってもらうこともできる。
ミレイユは、ペンを止めた。
増えた分は、なぜ増えたのか。エステルは、最初の面談で希望を言っていた。それを形にしなかったのは自分だ。聞き取りが足りなかった分を、宮廷に払わせるわけにはいかない。
代金は、十六銀貨のまま。増えた二銀貨半は、店が持つ。
翌朝、家賃の相談ではないと前置きして、ミレイユは帽子店に寄った。見積もりの紙を見せると、アニエスは数字を指でなぞった。
「上限まで上げられるのに、上げないの」
「上げる理由が、私の側の失敗なので」
「なら、それでいいわ。ただ、その二銀貨半は、あなたの店が払う授業料よ。何を学んだか、ちゃんと帳面に書いておきなさい」
店に戻り、アニエスの紙のひと月先の週に、もう一つ印を足した。手帳の数字が、赤くなる。それでも、自分の仕事の値段の筋は、自分で通したかった。仕入れの頁の隅に、小さく書き添えた。――どう見られたいかを、最初に聞く。
変更案は、再面談の翌日に紙で出した。
調達局の小部屋で、ユリウスは紙を一行ずつ読んだ。
「変更点。甲の線と飾りの位置を、列の高さに揃える。踵と底の構造は、前の試作のものを残す」
「はい。踵と底は、ご本人が今のままでいいとおっしゃいましたので」
「費用。代金は十六銀貨のまま。増えた分は、工房の負担」
ユリウスは、そこで顔を上げた。
「工房の負担は、こちらから求めたものではありません」
「承知しています。聞き取りが足りなかった分です。そちらに払っていただく理由がありません」
ユリウスは少し黙ってから、頷いた。
「期限。二度目の仮合わせを、十七日後に」
「木型の手直しと、甲の裁ち直しを入れて、その日数です。修理のお客様の約束も、動かさずに済みます。その日までに、作り直します」
ユリウスは変更案に受付の印を押し、控えをミレイユに渡した。それから、手帳に何かを書き留めた。何を書いたのかは、分からなかった。
調達局を出て、長い廊下を歩きながら、ミレイユは控えの紙を見た。甲の線と、飾りの位置を、列の高さに揃える。
揃える。
言葉にするのは簡単だった。けれど、どう揃えるのか。銀の花を付ければ、エステル自身が重いと言っていた。縫い線を増やせば、ただ線が多いだけの靴になる。飾りを足せば足すほど、エステルが楽だと言った軽さが削れていく気がした。
足りないのは、飾りの数ではない。たぶん、形の整え方だ。
そしてその整え方を、ミレイユはまだ知らなかった。




