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王都の靴職人は、シンデレラを帰らせたい  作者: 南野遥


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第16話 歩けるのに、嬉しくない

 

 東棟の控えの間には、今日は先にユリウスが来ていた。

 窓際に立ち、手帳を手にしている。調達局として仮合わせに立ち会う、と書面にあった。ミレイユが会釈すると、ユリウスも短く頭を下げた。扉の外には、前と同じ係が砂時計を持って立っている。

 ここへ来るまでの道で、ミレイユは何度も布包みの上から靴の形を確かめていた。門で名前を告げる声も、前より落ち着いていたと思う。今日は、聞きに来たのではない。答えを見せに来たのだ。


 ミレイユは長椅子の脇に膝をつき、布包みを解いた。

 黒い革の靴が一足、磨いた木の床に並ぶ。甲の中央に、細い縫い線が一本。高い窓の光を受けて、線がかすかに光った。

 時刻ちょうどに、エステルが入ってきた。


「お待たせいたしました。今日は、よろしくお願いいたします」


 前と同じ紺の礼装。エステルは長椅子に座り、自分の靴を脱いで脇に揃えると、差し出された試作に目を落とした。


「これが」

「はい。踵と、指の付け根を見ていただきたくて」


 エステルは礼を言い、試作に足を入れた。ミレイユは膝をついたまま、紐を通す手元と、踵の収まりだけを見ていた。

 壁際の背の高い鏡には、エステルの裾から下が映っている。ミレイユは、そちらには目を向けなかった。


「立ってみていただけますか」


 エステルが立ち上がる。ミレイユは踵の後ろに指を当てた。隙間はない。指の付け根の内側も、押してみると余裕がある。


「廊下を、少し歩いていただけますか。いつもの速さで」


 係が扉を開け、三人は許可された区画の廊下に出た。磨いた石の上を、エステルは謁見の間の脇まで歩き、引き返してきた。もう一度。足音が、石の上で揃って響く。

 ミレイユは、エステルの踵を後ろから見ていた。着地のたびに、外へ流れない。硬めの芯が、ちゃんと受け止めている。


「踵は、いかがですか」

「流れません」


 エステルは足を止め、少し驚いたように自分の足元を見た。


「いつもなら、もう内側に体重を逃がしているところです。それをしなくても、まっすぐ立てます。指の付け根も、当たりません」

「階段も、よろしいですか」


 ミレイユが尋ねると、エステルは控室へ下りる木の階段を三段だけ下り、また上ってきた。狭く急な段でも、踵は靴の中で浮かなかった。


「下りる時に、踵が置いていかれません」


 エステルはそう言って、もう一度だけ段を下りてみせた。

 控えの間に戻ると、エステルは裾を整え、立ち番の姿勢で立った。しばらくそのまま動かずにいて、それから小さく息をついた。


「歩きやすいです」


 その一言で、ミレイユの胸の奥が熱くなった。夕方の熱を逃がす中底。外へ流れる踵を受け止める芯。四十往復でも崩れない作り。図に引いた線が、ちゃんとエステルの足の上で働いている。


「底の外側は、減ってきたらそこだけ張り替えられるようにしてあります。半年ほどで一度見せていただければ、支給の靴のように駄目にはなりません。中底にも柔らかい革を重ねていますので、夕方の熱も――」


 話しながら、自分の声が少し弾んでいるのが分かった。ユリウスは窓際で、黙って手帳に何か書いていた。

 エステルは、ミレイユの説明に一つずつ頷いていた。底の張り替えの話には「それは助かります」と答え、中底の話には、靴の中で足の指を少し動かしてみせた。どの頷きも丁寧だった。エステルの目が一度、壁際の鏡の方へ動いた。ミレイユは、鏡に映る踵の収まりを確かめているのだと思った。


 エステルは、鏡の前へ歩いていった。

 背の高い鏡の正面に立ち、礼装の裾を、両手で少しだけ持ち上げる。黒い靴の爪先から甲までが、鏡に映った。

 エステルは、何も言わなかった。

 控えの間が、急に静かになった。扉の外で、係が砂時計を置き直す小さな音がした。窓の外の鳥の声まで、はっきり聞こえる。


 ミレイユは説明の続きを待ってもらっているのだと思い、もう一度口を開きかけた。けれど、エステルの横顔を見て、言葉が止まった。

 エステルは、鏡の中の足元を見ていた。長く、じっと。甲の細い縫い線の上で、窓の光がかすかに揺れる。銀の花はない。今エステルが脇に揃えて置いている靴の、甲で小さく光っていた飾りが、この靴にはない。

 エステルは裾を下ろし、少しだけ体の向きを変えた。列に並ぶ時の向きのように。


「……働くための靴でも」


 静かな声だった。


「自分だけ、見劣りしたくありません。列に並んだら、私の足元だけ、違って見えます」


 ミレイユは、すぐに答えた。


「でも、この靴なら、夕方まで足の裏が熱くならずに――踵も流れないので、立ち番の間に体重を逃がさなくても――」


 言いながら、自分が何をしているのかに気づいた。

 エステルは、歩きやすいと言った。それは本当だと、ミレイユにも分かっている。その上で、見劣りしたくないと言っている。それなのに自分は、歩きやすさを並べて、その言葉を引っ込めてもらおうとしている。

 喉の奥で、言葉が止まった。


 父の店の接客室が浮かんだ。鏡の前の夫人。銀糸の蔓草を、指で何度も撫でていた。慣れれば平気なのでしょう、と言いながら、手放したくないと言っていた指。あの時、自分は兄に、本人に聞きたいと言ったのだ。

 聞いた。紙の端にも書いた。けれど、それを靴の形にしなかった。

 夫人の時は、兄に止められた。けれど今日、自分を止める人は誰もいなかった。図を描いたのも、飾りを削ったのも、自分だ。

 鏡の中で、黒い靴は細い縫い線を一本だけ光らせていた。


 ミレイユは、体の前で両手を握り合わせた。


「申し訳ありません」


 エステルが振り返る。


「今、私は、歩きやすさの話で、エステルさんのお気持ちを説き伏せようとしていました。それは、違いました」


 何をどう直すのか、まだ何も決まっていない。ここで思いつきの案を口にすれば、また同じことを繰り返す。


「見劣りしない、というのが、どういうことなのか。ここで私が勝手に決めずに、一度、持ち帰らせてください」


 エステルは少し黙ってから、頷いた。

 扉が二度、軽く叩かれる。半刻が過ぎようとしていた。

 エステルは長椅子に座り、試作の紐を解いて脱いだ。それから、両足を揃えて、ミレイユの前に差し出した。爪先の向きまで、きちんと揃えて。


「歩きやすかったのは、本当です」


 慰めの響きはなかった。事実を一つ、置いていくような言い方だった。


「踵が流れなかったのも。それは、覚えておいてください」


 エステルは自分の靴を履き直し、一礼して、勤めへ戻っていった。

 ミレイユは揃えられた試作を見下ろした。黒い革に、細い縫い線が一本。来る時は、この線が自分の判断の証だった。

 踵は流れなかった。指の付け根も当たらなかった。階段でも浮かなかった。それは全部、本当だ。そして、それだけでは足りなかった。

 ミレイユは試作を布で包み直した。包む手が、来る時よりも遅かった。


 控えの間を出ると、ユリウスが廊下で待っていた。

 ミレイユは布包みを抱え、彼の隣に並んだ。言わなければならないことがあるのに、最初に口から出たのは、違う言葉だった。


「規定は、満たしていたはずです。慣習も――」


 言いかけて、止まった。言い訳だと、自分で分かった。

 ユリウスは足を止め、ミレイユの方を向いた。責める顔はしていなかった。手帳を閉じ、廊下の先の、謁見の間の方を見た。


「飾りは、列が揃って見えるためのものだと、前にお話ししました。規定がそれを求めているのは、そこに立つ人のためでもあります」


 一度言葉を切ってから、彼は事実を告げるように言った。


「その希望も、最初から条件でした」


 ミレイユは、何も言い返せなかった。

 ユリウスはそれ以上、何も足さなかった。慰めも、助言もなかった。二人は並んで、長い石の廊下を出口の方へ歩いた。

 謁見の間の前を通り過ぎる時、開いた扉の隙間から、昼の燭台の灯りが見えた。その手前に、紺の服の女官が三人、並んで立っていた。裾の下から、黒い靴の爪先が三つ、同じ高さで覗いている。甲の上で、小さな銀の花が三つ、灯りを受けて同じように光っていた。


 ミレイユは、足を止めかけて、そのまま歩いた。

 布包みを抱え直す。中の試作は、来る時と同じ一足のはずなのに、腕に重かった。

 

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