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『最後に一言よろしいでしょうか。――あなたの事が嫌いでした』  作者: NEA_


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第5話 最後の一言


 大広間は、完全に静まり返っていた。

 ついさっきまで流れていた音楽も、貴族たちのざわめきも、すべて消えている。


 残っているのは、平手打ちの破裂音の余韻だけだった。


 ライオネルは床に無様にへたり込んでいた。

 赤く腫れ上がった頬を押さえ、何が起きたのか理解できない顔をしている。


 王太子である自分が。

 大勢の貴族の前で。

 婚約者に叩かれた。


 その事実がようやく頭に入った瞬間、ライオネルの顔が真っ赤になった。


 彼は怒りに震えながら立ち上がる。


「き、貴様ぁっ! 私を誰だと思っている!」


 逆上したライオネルが、報復するように右手を大きく振り上げた。

 狙いは、ティファイナ。


 だが、ティファイナは逃げなかった。

 隠れもしなかった。


 ただ冷たい視線で、ライオネルをまっすぐに見据える。


「一方的に婚約破棄を宣言した上に、女性に手を上げるおつもりですか?」


 凛とした声が、大広間に響き渡った。


 その一言で、空気が変わる。


 王太子が、公の場で令嬢に暴力を振るおうとしている。

 しかも相手は、たった今、皆の前で婚約破棄を宣言された正式な婚約者だ。


 周囲の貴族たちが、ざわめき始めた。


「殿下は何を血迷っておられるのだ……!」


「エルトライン公爵家の令嬢に、あのような真似を……」


「これでは、王家から公爵家へ喧嘩を売ったも同然ではないか」


 冷ややかな非難の声が、広間のあちこちから広がっていく。


 ライオネルの手は、空中で止まっていた。


 それでも彼は、まだ自分が悪いとは思っていなかった。


 いや、それどころか、自分は絶対的に愛されているのだという妄想から、まだ抜け出せていなかった。


「な、なぜ怒る!? 君は私を慕っているのだろう? 愛する私の幸せなら、喜んで受け入れるはずだ!」


 あまりの身勝手さに、ティファイナは怒る気すら失せた。


 この男は、最後までこうなのだ。


 自分が何をしたのかも。

 何を踏みにじったのかも。

 何一つ、理解していない。


「殿下、あなたに敬愛する部分がどこかにありましたでしょうか?」


「なんだとっ……」


 ライオネルの顔が固まった。


 ティファイナは静かに息を吸う。


「最後に一言、よろしいでしょうか」


 広間中の視線が、ティファイナに集まった。


「婚約者として、最後の一言です」


 ティファイナが顔を上げる。


 そこにあったのは、王宮で見せていた完璧な婚約者の顔ではなかった。

 感情を押し殺し、何もかも呑み込んできた顔ではない。


 重い鎖から解き放たれたような、清々しく美しい笑顔だった。


「私は、あなたの事が嫌いでした」


 時間が止まった。


「幼い頃から、ずっと」


 広間が、さらに深い沈黙に沈む。


 ライオネルの余裕の笑みが、顔に張り付いたまま固まった。


「……え?」


 頭が真っ白になっていた。


 嫌われていた。


 ずっと。


 幼い頃から。


 ライオネルには、その事実が受け入れられなかった。


 自分は愛されているはずだった。

 ティファイナは、自分を慕っているはずだった。

 冷たくしても、ぞんざいに扱っても、最後には許してくれるはずだった。


 ズタズタにされたプライドを守るため、ライオネルは大声で叫び返す。


「そ、そうだ! 俺もお前が嫌いだ! お前のような可愛げのない女など、こっちから願い下げだ!!」


 顔を真っ赤にしたまま、彼は隣のミリアを示した。


「ミリアを見ろ! 俺の隣には、こんなにも愛らしく素直な女がいるんだ!」


 広間の空気は、さらに冷えていった。


 だが、ティファイナは静かに微笑んだ。


「ふふっ」


 その笑みは、これまでで一番美しかった。


 嫌味も、怒りも、未練もない。


 ただ、心から解放された者の笑顔だった。


「では、私たちは相思相嫌悪ですね」


「相思、相……」


 ライオネルがその言葉の意味を理解するより早く、ティファイナは完璧な淑女の礼をした。


 指先まで乱れない。

 背筋はまっすぐ。


 その姿は、誰が見ても美しかった。


「婚約破棄、喜んでお受けいたします。これからはミリア様と、お幸せに」


 ようやく終わった。

 私の心をすり減らすだけだった、無意味な役目が。


 ティファイナは、あっさりと背を向けた。



 その瞬間、ライオネルの胸に、言い知れぬ不安が広がった。


 なぜだ。


 なぜ、引き止めない。

 なぜ、泣かない。

 なぜ、すがらない。


 彼は突然、理解できない恐怖に襲われた。


 便利な道具だと思っていた者を、永遠に失ってしまった。


 そんな焦りが、遅れて胸を締めつける。


「待て、ティファイナ! 私は、そういう意味で言ったのでは――」


 ティファイナが立ち止まった。

 ゆっくりと肩越しに振り返る。


 その視線は、恐ろしいほどに冷たかった。


 ライオネルは、言葉を失った。


 その隣で、ミリアの顔からも血の気が引いていく。


 貴族たちの視線は冷たい。

 羨望でも、祝福でもない。


 まるで、許されざるものを見るような目が、ライオネルとミリアへ向けられていた。


 追い詰められている。


 その空気だけが、ミリアにもようやく分かった。


 彼女の体が、ガタガタと震え始める。



 その時だった。


 大広間の奥にある重厚な扉が開いた。


 重い足音が、広間に響き渡る。


 現れたのは、国王だった。

 その顔は、怒りで険しくなっている。


 貴族たちは、静かに道を空ける。


 敬意というより、この場の責任を王に突きつけるような沈黙だった。


「ライオネル」


 低く、重い声だ。


 たった一言で、ライオネルの顔から一気に血の気が引いていく。


 そして国王は、静まり返った大広間の中央へ、ゆっくりと歩み出した。


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