第4話 王太子の選択
大広間の前の廊下は、いつもより少しだけ空気が張りつめていた。
扉の向こうからは、楽団の演奏がかすかに聞こえてくる。
春の舞踏会。
王家に近い貴族たちが集まる、ただ華やかなだけではない場だ。
その大きな扉の前で、ティファイナは静かに待っていた。
王太子ライオネルの婚約者として、彼と並んで入場するためである。
隣では、侍女のアンナが最後の確認をしていた。
ドレスの裾を整え、髪飾りの角度を見て、小さくうなずく。
「お嬢様、私は大広間には入れません。ここでお待ちしています」
ティファイナは穏やかに微笑んだ。
「ええ。ただの春の舞踏会よ。私は王太子の婚約者として、隣で笑っているだけ。席のトラブルも収めたし、大丈夫よ」
その言葉に、アンナは一瞬だけ何か言いたげにした。
だが、何も言わなかった。
もう席の問題は処理した。
北部の面子も、王太子の顔も、ぎりぎり守った。
これ以上、何か起きるはずがない。
そう思いたかった。
その時、奥の廊下から足音が近づいてきた。
ライオネルだった。
いつものように自信に満ちた顔で、胸を張って歩いてくる。
だが、その腕にはすでに、ミリア・ローデリアが絡みついていた。
アンナが息をのむ。
ティファイナも、静かに目を見開いた。
ライオネルは、扉の前で待つティファイナを見た。
見たはずだった。
けれど、声をかけることはなかった。
まるでそこに誰もいないかのように、ミリアを連れたまま、扉の前へ進んでいく。
*
大広間には、華やかな音楽が流れていた。
天井からは大きなシャンデリアが光り、壁際には色とりどりの花が飾られている。
貴族たちはそれぞれの席で談笑しながら、王太子の入場を待っていた。
少し下げられた北部侯爵の席も、今日は特別に目立つよう整えられている。
テーブルには、エルトライン公爵家から贈られた特別なワインが置かれていた。
専用台まで用意され、見た目の格は十分に保たれている。
北部侯爵は満足そうにグラスを傾けていた。
「ティファイナ様の手配は見事だ。我々の顔も立つ」
その時、王太子の入場を知らせるファンファーレが鳴った。
大広間の重い扉が、ゆっくりと開かれる。
誰もが扉へ視線を向けた。
次の瞬間、広間の空気が変わった。
入ってきたのは、ライオネルだった。
だが、その隣にいるのは、王太子の婚約者であるティファイナではない。
ミリア・ローデリアだった。
ライオネルは扉の横で待っていたティファイナに声もかけず、完全に無視して、ミリアと並んで大広間へ入ってきたのだ。
開かれた扉の入り口に、ティファイナだけが一人、取り残されていた。
「なっ……!?」
北部侯爵が思わず声を上げる。
ざわめきが広がった。
「なんだ、あれは……?」
ただ隣を歩いているだけではない。
ミリアのドレスは、王家の者しか身につけられないはずの深い王家の青だった。
さらに胸元には、本来なら王太子妃となる女性に贈られるはずのアクセサリーまで輝いている。
それが何を意味するのか、広間にいる貴族たちにはすぐに分かった。
*
ライオネルは周囲の戸惑いに気づいていなかった。
むしろ、自分たちの愛が注目されているのだと勘違いし、誇らしげに広間の中央へ進んでいく。
隣のミリアは、恥ずかしそうにうつむいていた。
だが、その目だけは違う。
ちらりとティファイナを見る瞳には、はっきりと勝ち誇った色があった。
私の勝ちよ。
そう言っているような目だった。
ティファイナは、入り口から静かに歩き出した。
ざわめく広間の中を、まっすぐに進む。
そして、広間の中央で立ち止まった二人の前に立った。
「殿下。ここは公の場です。なぜ、子爵令嬢がその服で殿下の隣に?」
声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
責め立ててもいない。
けれど、その問いに込められた重さに、周囲の貴族たちは息をのんだ。
ライオネルは、そんな空気など少しも読まず、爽やかに笑った。
「ティファイナ。ちょうどいい、君にも皆にも聞いてほしかったんだ」
そう言って、彼はミリアの肩を抱き寄せた。
ミリアは恥ずかしそうに身を寄せる。
だが、ティファイナを見る目だけは笑っていた。
ライオネルは、広間中に聞こえる声で告げた。
「私は、ミリアを愛している」
音楽が止まった。
広間が、凍りついたように静まり返る。
その中で、北部侯爵が握りしめたグラスにヒビが走った。
「ティファイナ、君はいつも政治や書類ばかりで、私を癒やしてくれなかった。だがミリアは違う。彼女の素直さこそが、私を支えてくれる」
誰も言葉を発しなかった。
王太子が、王家の舞踏会で、正式な婚約者を前に、別の令嬢への愛を語っている。
それがどれほど大きな意味を持つのか。
周囲の貴族たちには分かっていた。
ティファイナは静かに問う。
「殿下。ご自分が何を仰っているか、おわかりですか」
ライオネルは堂々と笑った。
「君は私を慕い、尽くしてくれた。だから、私の幸せを受け入れてくれるはずだ」
貴族たちの顔が青ざめていく。
ティファイナをこんな形で捨てれば、国が真っ二つに割れる。
エルトライン公爵家を敵に回す。
彼女を頼っていた多くの貴族たちも、王太子のもとから離れる。
だが、ライオネルは何も気づいていなかった。
そして、ついに言ってはならない言葉を口にした。
「皆の前で宣言しよう。ティファイナ! 私は君との婚約を破棄し、ミリアを選ぶ!」
*
完全な静寂が落ちた。
誰も動かない。
誰も声を出せない。
ミリアだけが、うれしそうにライオネルの胸に顔をうずめていた。
勝った。
そう思っている顔だった。
ティファイナは、無表情で二人を見つめていた。
涙はない。
怒鳴りもしない。
ただ静かに、一歩、前へ出る。
ライオネルは、ティファイナが泣くと思っていた。
自分を失いたくないとすがると思っていた。
だから、ティファイナの右手が鋭く振り上げられたことに、気づくのが遅れた。
「パアアァンッ!!!!!」




