第3話 甘い花の香り
王宮の奥にある国王の執務室は、静まり返っていた。
机の上には、今日も山のような書類が積まれている。
国王はその一枚に目を通していたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
その前に立つライオネルは、自信に満ちた笑みを浮かべている。
「ライオネル。ティファイナ嬢とは、うまくやっているか?」
国王の問いに、ライオネルは迷いなく答えた。
「ええ、父上。何も問題はありません。ティファイナは私を深く慕っておりますから」
「……」
国王は黙って、息子の顔を見つめた。
底の浅い笑顔だった。
国王は短く息を吐いた。
「そうか。ならばよい」
*
王宮庭園の東屋には、甘い花の香りが満ちていた。
春の花が咲き乱れ、白い柱には細かな蔓が絡んでいる。
人目につきにくいその場所で、ミリアは少しうつむき加減に座っていた。
寂しそうに微笑む横顔は、いかにもか弱い令嬢そのものだった。
「わたくしがどれほど殿下をお慕いしても……舞踏会では、わたくしはただの客人です」
ライオネルが、心配そうに顔をのぞき込む。
「ミリア?」
ミリアはすぐには顔を上げなかった。
少しだけ沈黙を置いてから、胸の奥を打ち明けるように言う。
「わたくしは王宮に控えの間さえいただけない、しがない子爵令嬢。殿下のお隣に立てるのは、身分の高いティファイナ様だけ。……それが、少し羨ましくて」
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
ライオネルは一瞬で心を動かされた。
自分を慕う可憐な令嬢が、身分の差に苦しんでいる。
そう思ったのだ。
彼は愛しいものを守るように、ミリアの肩を力強く抱き寄せた。
「馬鹿なことを言うな。私が誰を特別に思うかは、私が決めることだ」
「でも、ティファイナ様が……」
「ティファイナは私を慕っている。私の幸せなら、受け入れるはずだ。……舞踏会で示そう。君が、私にとって特別だと」
ミリアはライオネルの胸に顔を埋めた。
その陰で、彼女の口角が歪にあがる。
「殿下……」
*
王宮に用意されたティファイナの控えの間では、静かな時間が流れていた。
机に向かうティファイナは、いくつもの書類に目を通している。
舞踏会に関する確認事項、貴族家への連絡、王宮内の手配。
どれも放っておけば、小さな火種になりかねないものばかりだった。
そこへ、扉が勢いよく開く。
アンナが足早に入ってきた。
いつも落ち着いている彼女にしては、歩き方がわずかに速い。
手には、何通もの封筒の束があった。
「お嬢様、至急のご報告が。殿下が勝手に手配させていた舞踏会の招待状を、発送直前で止めました」
ティファイナは顔を上げた。
「勝手に? 招待客のリストはすでに確定しているはずよ」
舞踏会の招待客は、家格、立場、過去の出席実績、王家との関係を見て決められる。
思いつきで増やしていいものではない。
アンナは机まで歩み寄り、封筒の束を置いた。
「ローデリア子爵令嬢の差し金です。彼女が自分の友人たちも舞踏会に呼びたいと殿下にねだり、殿下が追加の招待状を十二通も用意したのです」
ドンッ、と鈍い音が部屋に響く。
封筒の束は、ただの紙ではない。
王太子の名で用意された招待状。
これが正式に発送されれば、受け取った側は王家から招かれたものとして振る舞う。
止めるのが遅れれば、取り返しがつかなかった。
アンナの声に、わずかに怒りが滲む。
「そもそも、ティファイナ様の婚約者として、殿下はあまりにも――」
ティファイナの声が、静かに割って入った。
「アンナ。口が過ぎますよ」
強い声ではない。
だが、冷たかった。
アンナはハッとして、すぐに頭を下げる。
「……失礼いたしました。ですが、このリストをご覧ください」
ティファイナは封筒の束から名簿を取り出し、一つずつ名前を追った。
そして、すぐに問題点を見抜いた。
「……十二通のうち、半分は本舞踏会に招待される家格に達していないわ。それに、この令嬢は昨年の夜会で公の場でありながら泥酔し、スキャンダルを起こしたはずよ」
アンナは小さくうなずく。
「はい。こんなリストのまま正式に招待状を出せば、王家の序列と威厳が完全に崩壊します。しかし、殿下の招待状を完全に止めてしまえば、王太子の顔を潰すことに……」
最悪だった。
招待すれば、王家の秩序が崩れる。
止めれば、王太子の面子が潰れる。
発送前とはいえ、すでに王宮内の人間が動いている。
ここで握り潰せば、王太子の命令をティファイナが止めたという話だけが広がる。
そうなれば、ライオネルだけではなく、王家そのものの統制まで疑われかねない。
しかも原因は、ライオネルの浅はかな思いつきと、ミリアのわがままだ。
普通なら頭を抱える場面だった。
けれど、ティファイナはすぐに新しい紙を引き寄せた。
*
ティファイナのペンは速かった。
迷いなく、別の案内状を書き上げていく。
文面は丁寧で、失礼がない。
だが、本舞踏会とは明確に別物だと分かるように整えられていた。
「本舞踏会の前日に行われる、『若年令嬢のための交流茶会』。彼女たちにはそちらへの招待状として振り分けるわ。王太子殿下からの『特別のご配慮』という名目でね」
アンナの目が、すぐに理解したように動いた。
「それなら『殿下の招待状』という顔は立ちますし、格式の高い本舞踏会への侵入は防げますね」
「ええ。王家の催しに呼ばれたという事実があれば、ミリア様のご友人たちも不満は持たないでしょう」
王太子から招かれた、という形は残す。
だが、場所は本舞踏会ではない。
若い令嬢たちの交流を目的とした茶会なら、多少家格が足りなくても角が立ちにくい。
むしろ、将来の社交経験として扱える。
厄介な失敗を、別の催しにすり替える。
王太子の顔を潰さず、王家の格式も守る。
ティファイナは、ほとんど一瞬でその落としどころを作っていた。
アンナは深く一礼する。
「すぐに関係各所へ手配してまいります」
*
夜。
王宮での手配を終えたティファイナは、エルトライン公爵家へ戻っていた。
私室は静まり返っている。
昼間の騒がしさが嘘のように、廊下の足音も遠い。
ティファイナは窓辺に立ち、夜空に浮かぶ冷たい月を見上げていた。
「……」
次から次へと持ち込まれる身勝手な振る舞い。
王宮の秩序を守るための、終わりのない尻拭いと調整。
誰かが騒ぎを起こすたびに、誰かがそれを収めなければならない。
そしてその役目は、いつもティファイナのもとへ回ってくる。
怒りはなかった。
悲しみもない。
ただ深い疲労と諦めだけが、その横顔に張り付いていた。
「……はぁ」
吐き出された大きなため息が、窓ガラスを白く曇らせた。




