第2話 新しい風
王宮の一角にあるライオネルの執務室は、無駄に広く、無駄に明るかった。
机を挟んで向かい合うのは、王太子ライオネルと、その婚約者であるティファイナ・エルトライン公爵令嬢。
ティファイナの斜め後ろには、侍女のアンナが静かに控えている。
ライオネルは、いかにも自分は賢いと言いたげな、爽やかな笑顔を浮かべていた。
「ティファイナ、春の舞踏会の席次だが、私の隣席をローデリア子爵家のミリアに変更してくれ」
ティファイナは一瞬だけ目を細めた。
だが、表情は崩さない。
「……殿下の次席は、例年通りであれば北部侯爵の席でございます。そこに子爵令嬢を置けば、北部全体への侮辱と受け取られます」
舞踏会の席次は、ただ座る場所ではない。
王家が誰を重んじ、誰を軽く見るのか。
貴族たちへ、それを見える形で示すものだ。
だが、ライオネルは肩をすくめた。
「またそうやって古い慣習にこだわる。だから王宮は息苦しいのだ。私は次期国王として『新しい風』を入れたい」
胸を張る姿だけは、立派な理想を語る王太子そのものだった。
後ろに控えるアンナは、一切表情を変えず、冷えきった目を向けている。
「それに、宴の席だぞ? なぜ若く美しい私が色気のないむさ苦しい老人の隣で酒を飲まねばならんのだ。華やかで素直なミリアと楽しく話したい、それだけのことだ」
あまりにも浅い理由だった。
それでもティファイナは、静かに言う。
「政治の場における席次は、そのまま王家からの評価に直結いたします。どうかご再考を」
「大げさだな。たかが席だろう?」
その瞬間、ティファイナの目から、わずかに温度が消えた。
この男は、本当に分かっていない。
「北部の者たちも私の崇高な理想を理解するさ。それに、君なら上手く波風を立てずに誤魔化せるだろう? 私の顔を立ててくれよ、ティファイナ」
これ以上言っても無駄だ。
ここで拒めば、ライオネルは舞踏会当日に、もっとひどい形でやらかす。
ティファイナは静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
*
ライオネルの執務室を辞したあと、ティファイナはアンナを伴い、エルトライン公爵家へ戻った。
応接室に入るなり、席次表を机に広げる。
「……本当に、あの馬……失礼、殿下は」
アンナが扉を閉めるなり、淡々と漏らした。
「アンナ、口に出ているわよ」
「申し訳ありません。しかし『新しい風』とは恐れ入りました。ただ若い娘を隣にはべらせたいだけとは。北部の席を潰すなど、政治的自殺行為です」
ティファイナは咎めなかった。
アンナは感情ではなく、事実を述べているだけだった。
「お嬢様、このまま通せば当日、北部侯爵が激怒して席を立つのでは?」
「ええ。でも私がここで拒否すれば、殿下は舞踏会の最中に、皆の前でミリア様を上座へ呼び寄せるでしょうね。『堅苦しいことは抜きだ、こっちへおいで』と」
容易に想像できた。
しかも、あの男ならやる。
「それを避けるために、あえて泥を被るのですね。どのような手配を?」
ティファイナは図面へ線を加えながら答えた。
「北部の席は少し下がるけれど、テーブルの形と装飾を特注の物に変えるわ。そして、エルトライン公爵家からの『特別な年代物ワイン』を置くための専用台を併設する」
北部侯爵の席だけが、図面の上で明らかに特別扱いになっていた。
位置は下がる。
だが、見た目の格と、エルトライン公爵家からの厚意で補う。
完全に無傷にはできない。
それでも、露骨な侮辱には見えにくい。
「……席次が下がっても、エルトライン公爵家の名で箔をつけると。失礼にはなりますが――」
「致命傷にはしないだけです」
冷たい言い方だった。
だが、嘘はなかった。
「……承知いたしました。すぐに北部侯爵への書状を手配いたします」
*
その後、北部侯爵は、王都にある侯爵家の屋敷の執務室で、エルトライン公爵家から送られた書状を読んでいた。
読み進めるほどに、その顔は険しくなる。
だが、最後まで目を通すと、怒りは別の形へ変わった。
「『殿下の新しい風』だと……? ふざけるな、小娘を侍らせたいだけではないか! ……だが、ティファイナ様はこの馬鹿げた采配から、我が北部の面子をぎりぎりで守ってくださった。またあの賢い令嬢に救われたな」
侮辱された事実は消えない。
それでも、面子を守ろうとしてくれた相手がいることは分かった。
北部侯爵は書状を握りしめ、誰に見せるでもなく、深く一礼した。
*
夜の庭園を、ライオネルは上機嫌で歩いていた。
隣にはミリア・ローデリアがいる。
ミリアは不安そうな顔を作り、そっとライオネルの腕にすがった。
「殿下、本当に私が次席に座ってもよろしいのでしょうか? 上席の貴族の方々がお怒りになるのではと、不安で……」
上目遣いで見上げる仕草は、いかにもか弱く愛らしい。
だが、その計算高さに、ライオネルは気づかない。
「気にするな。私が『王宮に新しい風を入れる』と言ったら、皆感心していたよ。北部侯爵も文句一つ言わなかったそうだ。私の威光と人徳の賜物だな」
ミリアは口元を隠して上品に笑った。
「ふふっ、さすが殿下ですわ。殿下のお考えはいつも先進的で、素晴らしいです」
その目には、はっきりと優越感があった。
王太子の隣に座る。
その事実だけで十分だった。
「当日が楽しみだな。ティファイナの小言など気にせず、私と楽しもう」
「はいっ、殿下。私、殿下のおそばにいられて幸せです」
二人は楽しげに歩き去っていく。
*
次の日の夕方。
エルトライン公爵家の応接室には、ティファイナとアンナだけが残っていた。
机の上には、公爵家秘蔵のワインを出すための手配書、席の装飾変更の指示書、北部への配慮を形にするための追加書類が積み上がっている。
一つを直せば、一つでは済まない。
王太子の思いつきを、政治的に破綻しない形へ整えるには、それだけの手間が必要だった。
「……」
ティファイナは無表情のまま、黙々とペンを走らせていた。
誰に褒められるわけでもない。
けれど、放っておけばもっとひどいことになる。
窓の外は、もうすっかり暗い。
応接室の明かりの下で書類に向かい続けるその背中は、ひどく孤独に見えた。
アンナが静かに歩み寄り、何も言わず、新しいお茶を机の端に置いた。




