第1話 都合のいい女
エルトライン公爵家の応接室には、朝から人の出入りが絶えなかった。
机には、税の申請書、工事の見積書、領地間の調整願い、舞踏会の席次案が山のように積まれている。
どれも王宮へそのまま持ち込めば揉めるものばかりだった。
その机の前に座っているのは、ティファイナ・エルトライン公爵令嬢。
この国で王家の次に古い血筋を持つ、エルトライン公爵家の一人娘である。
幼い頃から神童として知られ、七歳で領地の税収表の間違いを見つけ、十歳で父である公爵の代わりに商人との交渉をまとめた。
十三歳になる頃には、貴族たちの間で「エルトライン公爵家の姫君に見てもらえば、揉め事の落としどころが見つかる」とまで言われていた。
そして彼女は、王太子ライオネルの正式な婚約者でもあった。
だからこそ、公爵も侯爵も伯爵も、王宮へ願い出る前に、まずエルトライン公爵家へ話を持ち込んでくる。
王命だけで貴族を動かす時代は、もう終わりかけている。
必要なのは命令ではなく、納得と面子と、損をしていないと思える形だった。
「雪で北の橋が落ちました。修理代を王宮に……」
北部侯爵が切り出した瞬間、南部侯爵が声を上げた。
「待たれよ。北ばかり優先されては、南の水路工事が遅れる!」
空気が重くなる。
どちらにも領地の事情があり、どちらも面子を守らなければならない。
普通なら、ここから長い言い争いになる。
だが、ティファイナは慌てなかった。
必要な書類だけを取り出し、内容を見比べてから言った。
「願い出は一つにまとめましょう。橋の修理は商人組合と協力し、南の工事は貴族の出資で。代わりに王家から『三年の税金免除』を出してもらうよう調整してみます」
もちろん、王家の名で出すものをティファイナ一人で決めることはできない。
だが、ここまで筋道を整えれば、王宮も受け入れやすい。
北部侯爵も南部侯爵も、納得した顔で王宮へ向かうことができる。
橋の修理は進む。
水路工事も止まらない。
王家が直接どちらかを優先した形にもならず、商人組合にも利益がある。
全員が、少しずつ納得できる案だった。
「これなら北にも南にも顔が立ちますね」
文句をつけようとしても、つける場所がない。
やがて北部侯爵が、深くうなずいた。
「……王宮へ出す前に、こちらへ来て正解でしたな」
その一言に、南部侯爵も渋々ながら同意するように息を吐いた。
揉めるはずだった問題が、たった数分で形になった。
だが、相談はそれだけではない。
「春の舞踏会の席ですが、侯爵家の次男が当主の私より上座になるのは……」
次に進み出た老伯爵は、声こそ穏やかだったが、表情は硬い。
席次はただの座る場所ではない。
貴族にとっては、家格であり、面子であり、周囲への見え方そのものだ。
ティファイナは席次表を見た。
たしかに、このままでは老伯爵の顔が潰れる。
だが、侯爵家の次男を下げれば、今度は侯爵家が不満を持つ。
ならば、上下ではない理由を用意すればいい。
「『初参加者のための紹介席』としましょう。上座ではありませんが、下に見られた形にもなりません。噂になる前に理由を用意するのです」
老伯爵はしばらく席次表を見つめ、ふっと口元を緩めた。
「お若いのに抜け目がない」
「失礼をそのままにしないだけです」
ティファイナは静かにそう答え、次の書類へ手を伸ばした。
*
昼過ぎ。
午前中にまとめた調整案を持って、ティファイナは王宮を訪れていた。
北の橋の修理。
南の水路工事。
春の舞踏会の席次。
それぞれの落としどころをまとめた書類は、宰相の手に渡り、そのまま国王の執務室へ運ばれた。
「今日だけですべてティファイナ様が調整されました」
王宮の奥にある執務室で、宰相は感心を隠さずに言った。
机の上には、エルトライン公爵家から届けられた調整案が置かれている。
どれも、王命だけで押し切れば不満が残る話だった。
だが、ティファイナは理由と落としどころを用意し、貴族たちが納得して引ける形に整えていた。
国王にとって、ティファイナはただの息子の婚約者ではない。
エルトライン公爵家の血筋。
貴族派閥をまとめる家格。
幼い頃から神童と呼ばれ続けてきた実績。
そして、実際に貴族たちを納得させる能力。
そのすべてを持つ娘を、婚約という形で王家の側へ引き寄せていることは、今の王宮にとって大きな意味があった。
国王は、重く息を吐いた。
「あの娘は誰の味方もしないから、敵も作らん。王家に絶対必要な娘だ」
*
その頃。
調整案を届け終えたティファイナは、帰りの馬車へ向かうため、王宮の中庭へ続く回廊を歩いていた。
手には、控えを入れた書類入れがある。
公爵家へ戻ったあと、家ごとに控えを分ける必要があった。
中庭では、ライオネルが白い石造りのベンチに腰を下ろし、退屈そうに足を組んでいた。
近くには側近が控えている。
「またティファイナは会議か。少しは婚約者の私を立てればいいものを、出しゃばりな女だ」
「ティファイナ様はお忙しいので……」
側近が控えめに言うと、ライオネルは鼻を鳴らした。
「ふん。王宮の仕事を牛耳って、いい気になっているのだろう。私に惚れ込んでいるからこそのご機嫌取りのくせに」
ティファイナはライオネルの姿に気づくと、足を止め、きちんと一礼した。
「ご機嫌いかがですか、殿下」
「……ああ。相変わらず小役人のような真似事が好きだな。埃くさいぞ」
その言葉に、側近がわずかに顔をこわばらせる。
だが、ティファイナは表情を変えなかった。
「必要なことですので。それでは失礼いたします」
短く答えると、再び一礼し、そのまま歩き去っていく。
背筋は伸びていた。
足取りにも乱れはない。
けれど、その後ろ姿を見送るライオネルは、彼女の態度を別の意味に受け取ったらしい。
鼻で笑い、得意げに言った。
「ほらな。どれだけ冷たくしても、婚約者としての礼は欠かさない。私に嫌われたくないのだろう。都合のいい女だ」
*
夕方。
王宮から戻ったティファイナは、再びエルトライン公爵家の応接室にいた。
机の上には、今日持ち込まれた相談事の控えが並んでいる。
北の橋、南の水路、春の舞踏会の席次。
どれも、すでに落としどころは決まっていた。
あとは、関係する家ごとに控えを分け、明日以降に余計な火種が残らないよう、言葉を整えるだけだった。
ティファイナは一人で、控えに目を通していた。
彼女は王宮の役人ではない。
机の端に置かれた茶は、すっかり冷めている。
彼女はその茶を見つめ、小さくため息をついた。
*
夜の王宮は、昼とは違う顔を見せる。
人の声は遠くなり、廊下にはロウソクの火が揺れていた。
子爵令嬢のミリアは、王太子に言われた通り、人気の少ない回廊の影で待っていた。
王宮に自分の控えの間などない彼女には、そこが精一杯の待ち場所だった。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
現れたのは、ライオネルだった。
その顔には隠しきれない浮ついた笑みがあった。
ミリアは回廊の影から一歩出ると、甘えるような声を出した。
「殿下っ、遅いですよ」
ミリアは、ライオネルの前で立ち止まると、わざとらしく手から薄桃色のハンカチを落とした。
ライオネルはそれを拾い上げる。
そして、ハンカチを返すふりをして、ミリアの腰を引き寄せた。
「すまない。父上の小言が長くてね。いつも持ち歩いているこの薄桃色のハンカチ、今日もいい香りだ」
「もう、からかわないでください。……誰かに見られたらどうするんですか?」
口ではそう言いながら、ミリアは逃げようとしなかった。
むしろ、ライオネルの胸に甘えるように寄りかかる。
その仕草に、ライオネルの顔がさらに緩んだ。
「ティファイナ様は今日も偉そうに政務をこなしていましたよ。あの人、殿下のことなんて少しも敬っていないみたい」
「放っておけ。あいつはただの便利な道具だ。俺の隣で微笑むのは、お前のように愛らしい女がいい」
「ふふっ……殿下ったら」
二人は、誰も見ていないと思っている廊下で甘く笑い合った。




