第6話 静かな朝
大広間の空気は、まだ凍りついたままだった。
誰も言葉を発しない。
その中心で、ライオネルは立ち尽くしていた。
さきほどまでの自信に満ちた顔は消え、今は青ざめた顔で震えている。
そんな息子を、国王は厳しい目で見ていた。
その後ろには、宰相が控えている。
「ち、父上……! 私はただ、自分の気持ちを皆に知ってほしくて――」
ライオネルは必死に言い訳をしようとした。
だが、国王の声がそれを切り捨てる。
「王太子の言葉に『ただ』などない」
冷たく、重い声だった。
その一言だけで、大広間の空気がさらに沈む。
ライオネルは口を震わせながら、それでも言い訳を続けようとする。
「私は、そこまでおおごとにするつもりでは……」
国王は、わずかに目を細めた。
そこにあったのは、怒りだけではない。
軽蔑だった。
「ここまで愚かとは」
ライオネルの顔がさらに青ざめる。
国王は息子から視線を外し、次にミリアを見た。
鋭い視線を向けられ、ミリアは小さく肩を震わせる。
さきほどまで勝ち誇っていた顔は、もうどこにもない。
今はただ、怯えた子爵令嬢がそこに立っているだけだった。
「その装いは、誰の許しを得た。王家の色と、王太子妃に贈られるはずの装飾品。子爵令嬢が勝手に身につけてよいものではない」
ミリアは何も答えられなかった。
代わりに、ライオネルが慌てて声を上げる。
「お、お待ちください! 選んだのは私です。ミリアは悪くありません!」
国王は、ゆっくりとライオネルへ視線を戻した。
「ならば、責任はお前にあるな」
その瞬間、ライオネルの表情が固まった。
自分で庇った言葉が、そのまま自分に返ってきたのだと、ようやく気づいた。
国王は広間に集まった貴族たちへ向き直る。
そして、はっきりと声を張り上げた。
「皆の者、聞け! 私は今この時をもって、ライオネルから王太子の位を剥奪する!」
「なっ……!?」
ライオネルの口から、情けない声が漏れた。
誰一人、異を唱える者はいなかった。
しかし、国王は止まらない。
「新たな王太子は、弟のフィリアルとする。ライオネル、お前は辺境伯の元へ行き、一兵卒としてやり直せ」
一兵卒。
その言葉が、ライオネルの心を完全に折った。
王太子ではない。
もう、誰も自分を特別扱いしてくれない。
辺境で、一兵卒として命令される側になる。
ライオネルは絶望で顔を歪め、その場に膝から崩れ落ちた。
国王は、そんな息子から視線を外した。
そして、静かにティファイナへ向き直る。
「ティファイナ嬢」
大広間中の視線が、再びティファイナへ集まった。
国王は深く息を吐き、はっきりと告げる。
「王家の者が、あなたとエルトライン公爵家に取り返しのつかぬ非礼を働いた。王として、心より詫びる」
広間が、重い沈黙に包まれた。
王が、公の場で非を認めた。
その事実を、貴族たちは黙って見届けていた。
ティファイナは静かに頭を下げる。
「お言葉、確かに承りました」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
責める必要はない。
もう、ライオネルの未来は決まったのだから。
*
床にへたり込んだライオネルを、ミリアは震えながら見ていた。
その視線に気づいたのか、国王が静かに口を開く。
「ローデリア子爵令嬢」
「は、はい……」
ミリアはまっすぐ背筋を伸ばした。
けれど、その顔色は悪い。
国王は、感情の読めない目でミリアを見据える。
「そなたは、王太子ではなくなったライオネルについていく覚悟があるのか」
広間の空気が、わずかに変わった。
誰も口を挟まない。
ただ、その場にいる全員の視線が、ミリアへ集まっていた。
さきほどまで、彼女はライオネルの隣に立っていた。
愛し合っていると、そう見せつけるように。
ティファイナを退け、自分こそが選ばれたのだと、勝ち誇るように。
けれど今、そのライオネルは王太子ではない。
辺境へ送られる男。
自分を王太子妃にしてくれない男。
ミリアの答えは、あまりにも早かった。
「そ、それは……わたくしの一存では決められません……父に相談を……」
「ミリア……?」
ライオネルは、信じられないものを見る目でミリアを見た。
さっきまで自分の胸に顔をうずめていたはずの令嬢。
自分を愛していると言っていたはずの令嬢。
そのミリアが、目を逸らしている。
「君は……私を愛していると言ったではないか……」
ライオネルの声は、ひどく弱々しかった。
その問いに、ミリアは答えなかった。
ただ、震える唇を噛みしめ、さらに一歩、ライオネルから距離を取る。
その光景を、広間に集まった貴族たちは冷ややかに見つめていた。
ティファイナは何も言わなかった。
ミリアを責めることも、ライオネルを笑うこともしなかった。
もう、自分には関係のないことだった。
やがて衛兵たちが近づき、泣き叫ぶライオネルと、逃げ場を探すミリアを大広間から連れ出していく。
その姿を見送る者たちの中に、同情の色はなかった。
*
数日後。
エルトライン公爵家の執務室には、新しい縁談の書状が山のように積まれていた。
机の前に座るティファイナは、その束を眺めている。
隣にはアンナが控えていた。
「……ライオネル様は辺境へ送られました。ミリア様も王太子妃の夢を絶たれ、ローデリア子爵家で謹慎中とのことです。今後、社交界に戻るのは難しいでしょう」
ティファイナは静かに答える。
「そう」
その声には、怒りも喜びもなかった。
ただ、終わった話を聞いているだけの声だった。
アンナは続ける。
「貴族の皆様も、今回の件で王家を見限るかと思いましたが、フィリアル殿下がすぐに後を継がれたことで落ち着きましたね」
ティファイナは窓の外へ視線を向けた。
遠く、王宮のある方角。
そこを静かに見つめる。
「王家を壊す必要はありません。ただ、愚かな方に未来を任せる必要もありません。……皆、そう思っていただけよ」
アンナは机の上の縁談の山へ目をやった。
「お嬢様の元には、さっそく新しい縁談の申し込みが山のように届いておりますが」
ティファイナは小さく息を吐く。
「急がなくていいわ。今は少し、休みたいの」
アンナは何も言わず、静かに頭を下げた。
*
よく晴れた朝だった。
エルトライン公爵家の庭園には、美しい花が咲き誇っている。
ティファイナはテラスの席に座り、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。
王宮にいた頃のような張りつめた空気はない。
誰かの失敗を先回りして埋める必要もない。
誰かの機嫌を損ねないよう、笑顔を作る必要もない。
ただ、静かな朝だった。
そこへ、ティファイナの父が歩いてくる。
「ティファイナ」
ティファイナはカップを置き、穏やかに顔を上げた。
「お父様。おはようございます」
父はティファイナの向かいの席に座った。
しばらく娘の顔を見つめ、それから穏やかな声で問いかける。
「……後悔しているか?」
ティファイナはカップを静かに置き、空を見上げる。
青く澄んだ空。
爽やかな朝の風。
それが、彼女の髪を優しく揺らした。
その顔には、今まで王宮では一度も見せたことのない笑顔が浮かんでいた。
年相応の、心からの美しい笑顔だった。
「いいえ」
迷いのない声だった。
ティファイナは、もう一度だけ空を見上げる。
そして、静かに微笑んだ。
「嫌いな方のいない朝とは……こんなにも静かなものなのですね」




