手帳の余白と、胸の中に響く声
丘の上には、再び穏やかな静寂が戻ってきた。
木漏れ日がサラサラと揺れ、真鍮ケトルから上るかすかな湯気が、風に溶けて消えていく。
ルーカスは一人、木椅子に深く腰掛け、テーブルの上に広げた己の手帳へと視線を落とした。
羊皮紙のページには、過去の滅びの記録から、新世界の芽吹きに至るまで、果てしない記憶の層が重なり合っていた。そしてそのページの最後——境界を越え、この丘の上で書き続けてきた物語の末尾には、まだほんのわずかな『真白な余白』が残されていた。
ルーカスは『藍色の羽ペン』を持ち直した。
夜渡り鳥の藍色の羽が、新世界の太陽の光を浴びて、神秘的な光芒を放つ。
「……師匠」
ルーカスは目を閉じ、静かに心の中で呼びかけた。
目を閉じれば、今でも鮮やかに思い出せる。 漆黒のロングコートをはためかせ、威厳たっぷりに先頭を歩く、背の高い師の姿。 方向音痴で迷子になり、料理を焦がしては不機嫌そうに眉間にシワを寄せ、けれど紅茶を淹れる時だけは世界で一番美しかった、あの不器用で愛おしい男。
そして——境界のプラットホームで、最初で最後に自分の本当の名前を呼んでくれた、あの温かな声。
(僕は今、ちゃんと前を歩けていますか?)
ルーカスは目を開け、ペン先をインク瓶に浸した。
黒いインクが藍色の羽ペンに染み込んでいく。ルーカスは息を整えると、手帳の最後の余白の上へと、滑らかにペンを走らせ始めた。
カリカリ、カリカリ……。
澄んだ羽ペンの音が、新世界の風の音と重なり合い、心地よい奏鳴曲となって響き渡る。
かつてはヴィンセントに赤ペンで消されてばかりだった拙い文章。 けれど今、ルーカスが紡ぎ出す言葉には、迷いも、恐れもなかった。
『世界は滅び、色や言葉、音は失われた。 けれど、かつてそこで生きた人々の熱と記憶は、決して消え去りはしなかった。
不器用で完璧な師匠が背負ってくれた「過去」の光は、 今、新しい世界の風となって、この緑の丘を吹き抜けている。
先生。僕が描くこの手帳は、あなたが僕にくれた最高の命の証明です。 僕がこの羽ペンを握り続ける限り、僕たちの旅は、どこまでも続いていきます』
書き終えたルーカスは、静かに羽ペンを置いた。
その瞬間、ふっと暖かな風が丘を吹き抜け、手帳のページをパタパタと優しくめくった。
その風の中に、かすかに、あの古文書の羊皮紙の匂いと、熟成されたブランデーの香り……そして、低く落ち着いた、懐かしい師の声が聞こえた気がした。
——『よくぞ描いた、ルーカス』
ルーカスは空を見上げ、溢れそうになる温かな涙を浮かべながら、深く、静かに頷いた。
「……はい、師匠」




