たどたどしいノートと、受け継がれた眼差し
「へっぴり腰……か。懐かしい響きだな」
ルーカスは小さく呟くと、目線を少年の高さまで合わせるようにして、ゆっくりと木椅子の腰を下ろした。
「座りなさい。長旅で足が疲れているだろう」
「あ、ありがとう……!」
少年は恐縮しながら木椅子にちょこんと腰掛け、緊張した面持ちで両手を膝の上に置いた。差し出された手作りのノートは、粗末な紙をタコ糸で縛った拙いものだったが、表紙には泥染みのついた手袋の痕が残っており、少年がどれほどこのノートを大切に抱えて歩いてきたかが痛いほど伝わってきた。
ルーカスは恭しくノートを受け取り、慎重に表紙をめくった。
ページの向こうから飛び出してきたのは、少年が旅の途中で目にしたであろう風景の数々だった。
泥で汚れた東の街道、新しく建てられた木造の風車、市場で売られていた大きなパンの絵。 鉛筆の線はどこまでも不器用で、遠近感も狂っており、文章も『風車が大きくてすごかった。パンがおいしかった』という、たどたどしい短文ばかりだった。
少年は息を詰まらせ、ルーカスの顔色を窺っていた。
「……やっぱり、下手くそかな。文章も絵も、みんなに『これじゃ何が書いてあるのか全然分からない』って言われちゃって……」
ルーカスは無言のまま、少年のノートのページをじっと見つめ続けた。
かつて、夜行列車『星屑の軌道』の居間で、ヴィンセントが自分の手帳を見つめていた時の長い沈黙。あの時の息が詰まるような緊張感と、師の鋭くも深い眼差しが、今、ルーカスの中に鮮やかに蘇っていた。
ルーカスは指先で、少年が描いた「大きな風車のスケッチ」の端をそっと撫でた。
絵は決して上手くはない。けれど、風車の羽が風を受けて回る線の強弱、そしてその下で風車を見上げて目を輝かせる人々の影の描き方には、少年がその場で感じた「風の跳ねる熱量」が、驚くほどの素直さで捉えられていた。
ルーカスは胸ポケットから「藍色の羽ペン」を取り出した。
「あっ……きれいな羽ペン……」
少年が思わず感嘆の声を漏らす。夜渡り鳥の青い羽が、木の葉が揺れる木漏れ日を受けて、星空のように神秘的な輝きを放つ。
ルーカスは卓上のインク瓶にペン先を静かに浸すと、少年のノートの余白へとペン先を向けた。
「……『風車が大きくてすごかった』、か」
ルーカスは低く、どこか懐かしむような声で少年の文章を読み上げた。
「君。何がどう凄かったのか、その風が君の頬にどんな温もりを運んできたのかを書くのが『記録』だ。感情の輪郭を横着して『すごい』という一言で片付ける者は、記憶を失うのも早いぞ」
「うぐっ……!」
少年は身をすくめた。その言葉は、かつてヴィンセントが幼いルカへ言い放った言葉と、寸分違わぬ厳格な教えだった。
けれど、ルーカスは少年の文章の上に赤線を引く代わりに、羽ペンを滑らかに走らせ、少年の風車のスケッチの脇に、流麗で温かな文字を書き添えた。
——『風の捉え方、秀逸なり。線の躍動が、文字の足らぬ風車の熱を正しく補っている』
書き終えたルーカスは羽ペンを置くと、ノートを少年の前へと押し戻した。
少年はおそるおそるノートを覗き込み、そこに書かれた文字を目にした瞬間、大きな瞳をポカンと見開いた。
「え……っ? 怒られない……? 僕の絵、下手じゃなかった……?」
「下手なものに『秀逸』と書くほど、私の評価は安くない」
ルーカスはヴィンセントの口調を真似てふっと鼻から息を漏らし、それから優しく微笑んだ。
「文章の語彙力においては、君はまだまだ勉強が必要だ。……だが、その眼差しと、線によって世界を切り取る感性は、すでに立派な『記録者』の芽生えだ。己の目と手に誇りを持ちなさい」
少年の瞳から、ぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう……ありがとう、お兄ちゃん……! 僕、もっとたくさん描くよ……!」




