忘れられない味と、小さな来訪者
「ふう……そろそろ良い時間かな」
ルーカスは蒸らし終わった磁器のポットを持ち上げ、テーブルの上の白いカップへと静かに注いだ。
琥珀色の澄んだ液体が注がれると同時に、風に乗って華やかなバラと甘い果実の香りが立ち上る。ヴィンセントが命がけで遺してくれた、あの幻の茶葉『天空の紅蓮香』——その最後の数グラムを、ルーカスは大切に保管し、特別な日にだけこうして淹れていたのだ。
さらにルーカスは、かばんの底から小さな缶を取り出した。
缶を開けると、中には自作の『果実のラム酒漬けケーキ』が入っていた。
あの日、境界の直前でヴィンセントと一緒に食べたあの三年熟成のフルーツケーキの味を忘れられず、ルーカスは新しい世界で手に入れた乾燥果実とラム酒を使い、何年も試行錯誤を重ねて再現した代物だった。
「よし、見た目はかなり近くできたぞ」
ルーカスが満足そうにケーキをナイフで切り分けていると、突然、丘の下の草むらからガサガサと賑やかな音が響いた。
「ハァ……ハァ……! つ、ついたぁ……!」
草を押し分けて現れたのは、小さな男の子だった。
大きな麦わら帽子をかぶり、膝に泥をつけたその少年は、ルーカスの体格よりもふた回りほど小さく、肩からはいかにも重そうな大きすぎる革のかばんを提げていた。かばんの紐を必死に握りしめるその姿は、かつてヴィンセントの後ろを必死について走っていた幼い頃のルーカスそのものだった。
「やあ。息が上がっているね、小さな冒険家さん」
ルーカスが優しく声をかけると、少年はハッと顔を上げ、大きな目を輝かせた。
「あ! やっぱりここにいた! 街の人たちが言ってた通りだ! 『丘の上の樹の下に、世界中のことを知ってる記録者様がいる』って!」
少年はとてとてと走ってくると、ルーカスのテーブルの前に立ち、大きな息を吐いて胸を張った。
「僕、遠くの東の街から来たんだ! 記録者様、お願いがあるの!」
「お願い……?」
ルーカスが首を傾げると、少年は重そうなかばんの中から、一冊の小さな、手作り感あふれるノートを取り出し、両手で恭しく差し出してきた。
「僕ね、大きくなったら世界中を旅して、いろんな街の絵を描く記録者になりたいの! でも……僕の描く絵も文章も下手くそのへっぴり腰だって、みんなに笑われちゃって……」
少年は悲しそうに眉を下げ、小さな声を漏らした。
「だから……本当の記録者様に、僕のノートを見てほしいんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、ルーカスの胸の奥で、カチリと過去の記憶の歯車が噛み合った。
「(……へっぴり腰、か)」
ルーカスは思わずくすっと笑いを漏らした。
目の前の少年のまっすぐで、けれど自分の未熟さに怯えている瞳。それは、あの日冷え切った車内で手帳を抱きしめていた自分自身の姿と、完璧に重なり合っていたのだった。




