手帳に宿る朱と、受け継がれた羽ペン
ルーカスはテーブルの上に、一冊の分厚い革張りの手帳を広げた。
長年の旅によって表紙の革は角がすり減り、幾つもの傷痕やインクの染みが刻まれている。だが、それはルーカスにとってどんな宝石よりも価値のある、己の人生そのものだった。
手帳のページをパラパラとめくる。
前半のページには、懐かしい「過去の世界」の記録が並んでいた。 色を失ったモノクロの廃駅、乾いた噴水盤に落ちていた蒼い星の欠片、大図書館の白紙のページ、音の消えた奏楽都市のパイプオルガン。
そこには、幼かったルーカスが拙い筆致で描いた繊細なスケッチと、言葉足らずな短文が残されている。そしてそのすべてのページに、あの流麗で力強いインクの文字——ヴィンセントが残した厳しい指摘の赤線と、最後につけられた温かな承認のチェックマークが、鮮やかに息づいていた。
赤ペンの下には、ヴィンセントが書いてくれた『よくやった、ルカ』という文字。
ルーカスはその文字を、そっと愛おしそうに指先で撫でた。
「……最初は、赤ペンで全部消されてばかりでしたね」
ルーカスは苦笑し、手帳の後半のページへと視線を移した。
手帳の後半——境界を越えてからのページには、ヴィンセントの赤線はもう入っていなかった。
代わりにそこには、成長したルーカスが描いた、息を呑むほど緻密で美しい「新しい世界の景色」が、ぎっしりと描き込まれていた。
新緑の丘を吹き抜ける風の線、新しく建てられた木造の家々、子供たちの弾けるような笑顔、市場に並ぶ色鮮やかな野菜や果物。言葉の語彙力も格段に増し、ルーカスの文章は、かつてのヴィンセントのように気品と深い洞察力に満ちたものへと変化していた。
そして、そのすべての新しいページを書き描いてきたのは——。
ルーカスは胸ポケットから、一本のペンを取り出した。
「藍色の羽ペン」。
夜渡り鳥の美しい藍色の羽は、新世界の太陽の光を受けて、まるで澄み切った深い海のように神秘的な青い光を反射した。ヴィンセントから手渡されたあの日から、ルーカスはこの羽ペンを片時も手放さず、手帳とともに歩んできたのだ。
「先生のペンは、やっぱりすごく書きやすいです」
ルーカスはペン先をインク瓶に静かに浸した。
羽ペンの軸からは、今でもかすかに、あのヴィンセントが好んでいた古文書の羊皮紙の匂いと、熟成されたブランデーのような甘い香りが漂ってくる気がした。




