受け継がれる羽ペンと、最初で最後の本名
ヴィンセントはゆっくりと膝を折り、ルカの目線に合わせるようにして視線を低くした。
普段は見上げるほど高かった師の顔が、すぐ目の前にある。深みのあるその瞳には、厳格さと、それ以上に深い愛おしさが揺らめいていた。
ヴィンセントは大きな手で、ルカの手の中に握られている「藍色の羽ペン」を優しく包み込んだ。
「……ルカ。お前はこの旅で、多くのものを得た。私の不器用な迷子癖を支え、不格好な料理を補い、言葉や音を失った世界から『光』を拾い上げた。……お前はもう、誰かに引き引かれるだけのへっぴり腰ではない」
ヴィンセントの低い声が、プラットホームの光の波紋に優しく染み込んでいく。
「これからは、その羽ペンでお前自身の足跡を刻みなさい。お前が手帳に描く一筆一筆が、新しい世界の歴史となり、道標となるのだ。……分かったな」
「……う……ぐ……っ……はい……! はい、師匠……!」
ルカは溢れる涙を止められず、何度も大きく頷いた。羽ペンの冷たい軸に、自分の涙と、ヴィンセントの大きな手の温もりが混ざり合っていく。
ヴィンセントは満足そうに微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。
そして、光の割れ目へと向かって背中を向けたルカの肩を、ポンと力強く叩いた。
「……行け」
ルカは意を決して、光の割れ目へと向かって一歩を踏み出した。
足を一歩前へ踏み出すごとに、身体がふわりと軽くなり、胸の中に閉じ込められていた恐怖や寂しさが、温かな勇気へと変換されていくのが分かった。手元に抱えた手帳と、握りしめた藍色の羽ペンが、まるで小さな太陽のように温かい熱を放っている。
境界の光がルカの身を包み込み、向こう側の新緑の風が長衣の裾を優しくなびかせた。
あと一歩で、光の扉をくぐり抜ける——その瞬間のことだった。
背後から、これまで聞いたこともないほど柔らかく、温かで、重厚なヴィンセントの声が響いた。
「——ルーカス」
「……っ!?」
ルカの足がピタリと止まった。
一度も呼ばれたことのなかった名前。 師匠が「弟子」でも「へっぴり腰」でもなく、ルカの本当のファーストネーム……かつて両親が付け、ヴィンセントに託した本名を、最初で最後に、心を込めて呼んだのだ。
ルカは弾かれたように振り返った。
光の渦の向こう側、プラットホームの端に立つヴィンセントの姿が見えた。
ヴィンセントは漆黒のロングコートを風になびかせ、威厳と誇りに満ちた佇まいで、ルカに向かって右手を静かに掲げていた。その口元には、これまで一度も見せたことのない、最高に誇らしげで、美しい微笑みが浮かんでいた。
言葉は、それ以上なかった。 だが、そのたったひとつの「名前」の中に、ヴィンセントの過去のすべてと、ルカへの愛と、未来への祈りが、完璧に込められていた。
「……っ……師匠ーーーーっ!!」
ルカは叫び、溢れる涙を拭いもせず、最後にもう一度だけ、最高の笑顔を浮かべて深く頭を下げた。




