↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『星屑の軌道 — 記憶を巡る夜行列車』  作者: 天ヶ瀬 彗燦
第五章:残影の立ち込める境界地と、秘蔵の果実
PR
42/51

受け継がれる羽ペンと、最初で最後の本名

ヴィンセントはゆっくりと膝を折り、ルカの目線に合わせるようにして視線を低くした。


普段は見上げるほど高かった師の顔が、すぐ目の前にある。深みのあるその瞳には、厳格さと、それ以上に深い愛おしさが揺らめいていた。


ヴィンセントは大きな手で、ルカの手の中に握られている「藍色の羽ペン」を優しく包み込んだ。


「……ルカ。お前はこの旅で、多くのものを得た。私の不器用な迷子癖を支え、不格好な料理を補い、言葉や音を失った世界から『光』を拾い上げた。……お前はもう、誰かに引き引かれるだけのへっぴり腰ではない」


ヴィンセントの低い声が、プラットホームの光の波紋に優しく染み込んでいく。


「これからは、その羽ペンでお前自身の足跡を刻みなさい。お前が手帳に描く一筆一筆が、新しい世界の歴史となり、道標となるのだ。……分かったな」


「……う……ぐ……っ……はい……! はい、師匠……!」


ルカは溢れる涙を止められず、何度も大きく頷いた。羽ペンの冷たい軸に、自分の涙と、ヴィンセントの大きな手の温もりが混ざり合っていく。


ヴィンセントは満足そうに微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。


そして、光の割れ目へと向かって背中を向けたルカの肩を、ポンと力強く叩いた。


「……行け」



ルカは意を決して、光の割れ目へと向かって一歩を踏み出した。


足を一歩前へ踏み出すごとに、身体がふわりと軽くなり、胸の中に閉じ込められていた恐怖や寂しさが、温かな勇気へと変換されていくのが分かった。手元に抱えた手帳と、握りしめた藍色の羽ペンが、まるで小さな太陽のように温かい熱を放っている。


境界の光がルカの身を包み込み、向こう側の新緑の風が長衣の裾を優しくなびかせた。


あと一歩で、光の扉をくぐり抜ける——その瞬間のことだった。


背後から、これまで聞いたこともないほど柔らかく、温かで、重厚なヴィンセントの声が響いた。


「——ルーカス」


「……っ!?」


ルカの足がピタリと止まった。


一度も呼ばれたことのなかった名前。 師匠が「弟子」でも「へっぴり腰」でもなく、ルカの本当のファーストネーム……かつて両親が付け、ヴィンセントに託した本名を、最初で最後に、心を込めて呼んだのだ。


ルカは弾かれたように振り返った。


光の渦の向こう側、プラットホームの端に立つヴィンセントの姿が見えた。


ヴィンセントは漆黒のロングコートを風になびかせ、威厳と誇りに満ちた佇まいで、ルカに向かって右手を静かに掲げていた。その口元には、これまで一度も見せたことのない、最高に誇らしげで、美しい微笑みが浮かんでいた。


言葉は、それ以上なかった。 だが、そのたったひとつの「名前」の中に、ヴィンセントの過去のすべてと、ルカへの愛と、未来への祈りが、完璧に込められていた。


「……っ……師匠ーーーーっ!!」


ルカは叫び、溢れる涙を拭いもせず、最後にもう一度だけ、最高の笑顔を浮かべて深く頭を下げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。