開かれた鍵と、甘い果実の香り
「……先生? その棚、開けるの初めて見ました。何が入ってるんですか?」
ルカが目を丸くして覗き込むと、ヴィンセントは威厳たっぷりに鍵穴へ鍵を差し込み、静かに回した。
カチリ、と重い金属音が響き、棚の扉がゆっくりと開かれる。
中に納められていたのは、厳重に蠟引きの布で包まれた、一箱の小ぶりな黒ウルシ塗りの木箱だった。箱の表面には銀の象嵌で繊細な星の軌道が描かれており、ヴィンセントが長年の旅の間、片時も離さず大切に保管してきたものであることが一目で分かった。
「……ルカ。お前にこれを見せる日が来るとはな」
ヴィンセントは慈しむような手つきで木箱を抱え上げ、居間の丸テーブルの中央へと静かに置いた。
「なになに……? 宝物ですか? すごく古い魔導書とか?」
「魔導書などではない。……これは、我が流派の旅が最終局面に達した時にのみ開くことを許された、『至高の記憶』だ」
「至高の記憶……?」
ヴィンセントは真顔で頷くと、丁寧に木箱の紐を解き、黒ウルシの蓋をすっと持ち上げた。
その瞬間——。
ふわり……っ!
一瞬にして、車内中に目眩がするほど濃厚で芳醇な甘い香りが爆発的に広がった。
重厚なラム酒の芳醇な熟成香、濃密な蜂蜜と黒砂糖の甘い匂い、ブランデーに漬け込まれたレーズンやイチジク、オレンジピールの甘酸っぱい果実香、そして香ばしいアーモンドとクルミの香ばしさ。それらが何年もの歳月を経て完璧に溶け合い、ひとつの重厚な香りの芸術となって、ルカの鼻腔を激しく揺さぶった。
「……っ!? な、なにこれ……すごく甘くて、良い香り……!」
ルカは思わず目を輝かせ、テーブルの上を覗き込んだ。
箱の中に鎮座していたのは、ぎっしりとドライフルーツとナッツが練り込まれ、全体が琥珀色のラム酒のシロップでしっとりと濡れた、見たこともないほど重厚で美しい『熟成フルーツケーキ』だった。
「これは……かつて世界が色に満ちていた頃、王都で最も高名だった老パティシエが、我がために焼いてくれた特製のラム酒漬けフルーツケーキだ」
ヴィンセントは誇らしげに胸を張り、尊大な態度で語り始めた。
「三年間、一定の温度と湿度を保ち、定期的に極上のヴィンテージ・ラム酒を注ぎ足しながら熟成させ続けた逸品中の逸品だ。……このケーキひとつの価値は、現在の世界では城ひとつにも匹敵する」
「ま、またそんな大袈裟な……! でも、すごいです先生……! こんなのずっと隠し持ってたんですか!?」
「隠していたのではない。熟成の『時』を待っていたのだ」
ヴィンセントは満足そうに鼻を鳴らすと、さらに木箱の底から、もうひとつの小さな真鍮缶を取り出した。
「そして……このケーキに合わせるべきは、滅びの直前に僅か数グラムしか採れなかった、幻の茶葉『天空の紅蓮香』だ。……今宵、私たちの最後の平穏の宴を始めるぞ」




