死んだ駅と、モノクロームの街
ホームの木板は各所で腐り落ち、足を踏み出すごとにギィ、ギィと不吉な音を立てて撓んだ。改札の鉄柵は真っ赤な錆の塊と化しており、かつて乗客たちが切符を切っていたであろう木製の窓口は、ガラスが粉々に割れて足元に散らばっている。その破片すら、長年の風雨で磨かれて光を失っていた。
「静かですね……」
「街が静かなのではない。世界が音を失っているのだ」
ヴィンセントは漆黒のコートの裾を風になびかせながら、廃駅の階段を降りていく。
「人が去り、言葉が途絶え、記憶が失われると、物質は音を立てるのをやめる。……今、この世界でまともに音を立てているのは、我が列車の機関と、私たちの足音くらいのものだ」
駅舎を抜け、ゆるやかな坂道を下ると、二人の目の前にその「街」が姿を現した。
「……すごく、立派な街なのに」
ルカは立ち止まり、ランタンの青白い光を前方へとかざした。
そこは、かつて数千、数万の人々が身を寄せて暮らしていたであろう、立派な石造りの都市の跡だった。とんがり屋根の住宅が規則正しく立ち並び、石畳の小道が網の目のように複雑に伸びている。中央には開けた広場があり、巨大な時計塔が夜空に向かってそびえ立っていた。
だが、何かが決定的に、そして異様に壊れていた。
この街には、「色」が存在しなかった。
赤レンガの壁も、深い緑色だったであろう扉も、石畳のグレーも、かつては色鮮やかに店を飾っていたであろう看板の文字も——そのすべてが、まるで黒と白の絵の具を混ぜ合わせたような、生気のない灰色のモノクロームへと変貌していた。
世界の滅びは、時に暴風や天変地異となって激しく訪れるが、多くはこのように「概念の消失」として静かに、そして完璧に進行する。この街は、世界から「色彩」という記憶を奪われ、消えゆく途上にあるのだった。
「悲観する必要はない」
前を歩くヴィンセントが、淡々とした声で言った。
「色が消えても、石の重さは変わらん。建物がそこに在るという物理的な事実もな。……星の欠片とは、過去の情熱や強い願いが地上に落ちたものだ。ならば、色を失い、記憶を渇望しているこのような場所ほど、強く惹かれ合って落ちてくる」
ヴィンセントは立ち止まり、大物らしく顎を上げて周囲を見回した。眉間に深いシワを寄せ、まるで風の匂いを嗅ぎ分けるかのように目を細める。
「……こちらの気配が強いな。私の直感がそう告げている。この路地を右へ曲がるぞ、ルカ。遅れるな」
「あ、ちょっと先生! そっちは——」
ルカの制止を聞く間もなく、ヴィンセントは漆黒のコートを誇らしげにはためかせ、小道を右へと力強く曲がっていった。
……そして、それから十五分後。
二人は、巨大な時計塔の前に立っていた。
さらに十五分後。
二人は、再び同じ時計塔の前に立っていた。
そしてさらに十五分後。
二人は、三度目となる時計塔の前に立っていた。足元には、先ほどルカがうっかり落としたランタンの小さな削り傷が、石畳の上にそのまま残っている。
「……先生」
ルカはランタンを持ち上げ、疲れ切った横顔でヴィンセントを見上げた。
「なんですか、この時計塔。僕たちに何か特別な思い入れでもありましたっけ?」
ヴィンセントは眉ひとつ動かさず、威厳に満ちた佇まいのまま、腕を組んで時計塔を見上げていた。
「……ふむ。これは私の方向感覚の問題ではない。この街の空間構造が、私たちが思っている以上に歪んでいるのだ。過去の地理概念と、現在の空間位相が一致しない。幾何学的な異常事態と言っていい」
「いい加減にしてください! ただの迷子でしょう!」
ルカは耐えかねて声を荒げた。
「さっきから同じ時計塔の周りをぐるぐる回ってるだけです! その角にある崩れたパン屋の跡地、これで見るの四回目ですよ! 煙突の形まで暗記しちゃいました!」
「……あのパン屋のエントツは、空間の基準点として非常に優秀な配置をされているのだ。私が幾度となくそこへ引き寄せられるのも理にかなっている」
「言い訳が苦しすぎます! 堂々と迷子だって認めてください!」
ルカは深く溜め息をつき、自分の長衣の袖をぎゅっと握りしめた。これは、彼が限界まで呆れたとき、あるいは困惑したときに出る無意識の癖だった。
この「自称・空間位相の歪み」に付き合っていたら、星の欠片を見つける前にこちらが寒さで凍え死んでしまう。
ルカはヴィンセントの前に踏み出すと、彼の黒革の手袋で覆われた大きな手を、ギュッと自分の小さな両手で掴んだ。
「ほら、こっちです! 今度は僕の後ろをついてきてください!」
「……む。弟子が師を牽引するなど、前代未聞の不敬だぞ。我が流派の歴史において——」
「立ち往生するより千倍マシです! ほら、足を出して!」
ルカはヴィンセントの手を引っ張り、パン屋の跡地とは反対側の、ゆるやかな下り坂になっている左の小道へと足を踏み出した。
ヴィンセントは「ふん、無礼なへっぴり腰め」とボソッと呟きながらも、素直にルカに引かれて重い靴音を響かせ始めた。背が高く、威厳あふれる大男が、小さな少年に手を引かれてトボトボとモノクロの街を歩く——そaの光景は、恐ろしいほどシュールで、けれどどこか温かかった。
ルカは前を見据えながら、手の中に残る革手袋の感触に意識を向けた。
冷たい荒野の夜気の中でも、ヴィンセントの手はいつも驚くほど温かい。幼い頃、親に託されてこの男のコートの裾にすがりついた日のことが、かすかに脳裏をよぎる。あの時も、この不器用で頑固な男は、追い払うこともせずにただ無言でルカの手を包み込んでくれたのだった。
「……先生、引っ張りすぎですか?」
「いや。……お前の引き方は、熱伝導と歩行効率の観点から言えば、実に非効率的だがな」
「素直に『ありがとう』って言えないんですか、この人は……」
ルカは呆れつつも苦笑し、手袋を握る力を少しだけ強めた。




