奏楽の塔と、無音の鍵盤
石畳の路地を抜け、街の中央広場へと足を踏み入れると、そこには息を呑むほど巨大な建造物がそびえ立っていた。
『奏楽の塔』——かつてこの都市の象徴であり、街全体に張られた音管の起点となっていた大パイプオルガンの塔だ。
塔の外壁は無数の真鍮製パイプで覆われており、それらはまるで生き物の血管のように複雑に絡み合いながら、空高くへと伸びている。寒風が吹き抜けるたび、無数のパイプの開口部を風が通り抜け、本来であれば大地を揺るがすほどの重厚な大合奏が響き渡るはずだった。
だが、聞こえてくるのは「ヒュウ……」という、空しい風切り音のみ。
音管そのものが空気の振動を音に変える能力を失い、ただの「穴の開いた金属管」と化していた。
「……ここが、街の中心ですね」
ルカはランタンを持ち上げ、塔の基部にある重厚な木製の大扉を見上げた。扉には楽符や楽器をモチーフにした精巧な木彫りが施されているが、その表面の漆も削げ落ち、乾燥した木肌がむき出しになっている。
ヴィンセントが重い手で扉を押し開けると、長年閉ざされていた空間特有の、乾燥した埃と金属の匂いが鼻をついた。
「入るぞ、ルカ。足元に気をつけろ」
塔の内部は、巨大な吹き抜けのホールになっていた。
中央のステージには、数千本のパイプとつながる漆黒の演奏台が鎮座している。象牙と黒檀で作られた幾重もの鍵盤、無数のストップ、そして足元に並ぶ木製のペダル。
ヴィンセントは無言で演奏台へと歩み寄ると、黒革の手袋を外し、そっと象牙の鍵盤の上に指を走らせた。
ポン、と指が落ちる。
鍵盤は滑らかに沈み込んだ。だが、そこからは何の音も生まれない。
ドの音も、ミの音も、美しい和音も——すべては沈黙の底へと吸い込まれ、ただ鍵盤が物理的に木枠に当たる「カタ」という極小の振動が手に残るだけだった。
「……鳴らんな」
ヴィンセントが低く呟いた。その声には、深い惜別の情が混ざっていた。
「かつてこの塔のオルガンは、百里離れた隣国にまでその調べを届けたという。王の戴冠式、恋人たちの誓い、逝く者への鎮魂歌……人々の喜びと悲しみが、すべてこの鍵盤を通じて空へと放たれていたのだ」
「師匠……音楽のこと、詳しいんですね」
ルカが尋ねると、ヴィンセントは鍵盤から静かに手を離し、懐かしむように目を細めた。
「……遠い昔のことだ。アークメイジの嗜みとして、音響魔術と旋律の理論を学んだことがある。……完璧な和音とは、世界の調和そのものだからな」
そう語るヴィンセントの横顔は、やはりどこか哀しげだった。
かつてこの場所に満ちていた『本物の音楽』を、彼は知っているのだ。そして今、それが完全に途絶えた世界で、音の出ない鍵盤を叩いている。その孤独の深さは、まだ若いルカには推し量ることもできないものだった。




