裁縫針と不器用な指先
カタコト、カタコト、カタコト。
車輪が鉄の線路を噛む規則的な脈動に混ざって、車内にはかすかな「チクッ……痛っ」という低い呟きが響いていた。
真鍮ランプの温かな橙色の光の下、居間のテーブルに向かっていたルカは、羽ペンを走らせていた手を止めて顔を上げた。
向かいの革ソファーでは、漆黒のロングコートを脱ぎ捨てたヴィンセントが、大柄な身体を丸めるようにして格闘していた。彼の両手には、黒い木綿糸を通した一本の小さな裁縫針と、ケープの端が少しほつれたコートが握られている。
見上げるほど背が高く、恐ろしいほどの魔力と知識を誇る大魔導士が、指先ほどの小さな針と必死になって戦っている姿は、どこか奇妙で、同時に酷く微笑ましかった。
「……先生。何をしてるんですか?」
「……見れば分かろう。服飾の構造的修復だ」
ヴィンセントは眉間に深いシワを刻み、鋭い眼光で針穴を見つめながら答えた。だが、その太い指先は微かに震えており、針先はあさっての方向へと空を切っている。
「コートのケープの縫合線が、過酷な旅の引力によって微小な解れを起こしていた。故に、私が自ら魔術的補強を施そうとしているのだ」
「またそんな難しい言い方をして……ただのほつれ縫いでしょう?」
ルカは溜め息をつき、ソファーから立ち上がってヴィンセントの脇へと歩み寄った。
「だいたい、先生が裁縫なんてできるんですか? 料理であんな大惨事を起こしたばかりなのに……」
「失礼なことを言うな、へっぴり腰。裁縫とは幾何学的な線の交差し、張力の計算だ。私の緻密な頭脳をもってすれば、このような単純作業など——痛っ!?」
威厳たっぷりに語っていた途中で、ヴィンセントは再び自分の親指に針を刺し、顔をしかめた。
ヴィンセントの手元を見ると、ほつれていたはずの生地は縫い合わされるどころか、黒い糸が不格好に固まり、まるで巨大な毛糸玉のように絡まりついていた。さらに、彼の指先には痛々しい小さな赤点が幾つもできている。
「……ハァ。やっぱり無理じゃないですか」
ルカは呆れたように首を振り、ヴィンセントの手から針と糸、そして重いコートを半ば強引に引き取った。
「貸してください。僕が縫いますから」
「……む。弟子に私の服を修繕させるとは、師としての面目が……」
「面目より、先生の指が針穴だらけになるほうが問題です。それに、これ以上糸をぐちゃぐちゃにされたら、解くのが大変になります」
ルカは手際よく絡まった糸を小さな鋏で切り落とすと、新しい黒糸を針穴にスッと通した。小さな頃から自分の大きすぎる長衣の丈を詰めたり、綻びを縫い直したりしてきたルカにとって、裁縫はお手の物だった。
指先を滑らかに動かし、コートの解れを均一な目縫いで綺麗に塞いでいく。
ヴィンセントはそれ以上文句を言わず、腕を組んで黙り込み、自分の小さな弟子が器用に針を運ぶ手元を静かに見つめていた。
「……手慣れているな」
「僕の服、先生からもらった時から丈が長すぎましたからね。自分で直すしかなかったんですよ」
ルカは笑いながら針を運び、最後に糸の結び目を作ってハサミでパチンと切った。
「はい、できました。これで元通りです」
ヴィンセントは手渡されたコートを受け取り、縫い目をじっくりと検分した。一切の乱れがない美しい仕上がりに、彼は眉間のシワを少しだけ和らげ、満足そうに頷いた。
「……ふむ。縫合の精度、張力の均一性、ともに極めて良好だ。……お前の手先は、どうやら料理と裁縫においては私を凌駕しているようだな」
「料理と裁縫『だけ』ですか?」
「そうだ。記録者としての知性と空間把握能力においては、まだ私には遠く及ばん。……だが、不合格ではない。礼を言うぞ、ルカ」
「へへ、どういたしまして!」
ルカは嬉しそうに胸を張った。
料理はルカ、お茶はヴィンセント。そして、裁縫もルカの役割へと加わった。完璧だったはずの師匠の不器用な隙間を、自分が少しずつ埋めていっている感覚が、少しずつ対等になっているような感覚が、ルカにはたまらなく誇らしかった。




