雲上の廃墟と、文字を失う本
「……減速?」
ルカはスプーンを置き、窓の外へと視線を戻した。
列車は雲海を抜ける長い鉄橋を渡り切り、山頂の開けた平坦地へと足を踏み入れようとしていた。
そこに広がる光景を目にした瞬間、ルカの手からスプーンが滑り落ちそうになった。
「……何ですか、あれ……」
山頂の広い台地に築かれていたのは、一見すると巨大な「城塞」のようだった。
だが、近づくにつれてそれが城ではないことが分かった。どこまでも続く何重もの円環状の回廊、天を突く無数の石造りのドーム屋根、そして何万、何億もの本を収められるであろう無数の棚が整然と並ぶ、あまりにも巨大な「大図書館」の廃墟だった。
かつて世界のすべての知識、歴史、詩歌、魔術の記述が集められたとされる、知の聖域。
だが、現在のその姿は痛々しかった。
巨塔の壁は崩れ落ち、ドームの屋根には巨大な穴が開き、雲海から流れてきた白い霧が、まるで蛇のように書架の隙間を這い回っている。そして何より異様だったのは、石造りの棚にぎっしりと並べられた無数の「本」たちだった。
「……色だけじゃない。あの街は……」
ヴィンセントが立ち上がり、磁器のカップをテーブルに置いて窓辺へと歩み寄った。その瞳が、厳しく細められる。
「言葉が、消えているのだ」
「え……? 言葉が……?」
列車はゆっくりと、大図書館の中央広場と思われる巨大な石造りのプラットホームへと滑り込み、重い静寂とともに停止した。
ルカはランタンと手帳を抱え、ヴィンセントの後に続いてステップを降りた。
足元には、風に吹き飛ばされた無数の羊皮紙や紙片が、まるで落ち葉のように散らばっている。ルカはしゃがみ込み、足元に落ちていた一冊の重厚な革装丁の本を拾い上げた。
「……あ」
ルカは息を呑んだ。
革の表紙には、かつて金の金箔で刻まれていたであろうタイトルの「窪み」だけが残っていた。おそるおそる本を開いてみる。
厚手の紙のページがめくられる。だが、そこには何も書かれていなかった。
いや、正確には「書かれていた痕跡」だけがあった。インクが掠れ、文字の形が丸ごと擦り減り、まるで最初から白紙であったかのように、ページ全体から文字という概念が蒸発していたのだ。
次のページをめくっても、その次のページをめくっても、書かれているのはただの「白紙」だった。
「そんな……本なのに、何も書いてない……」
「これが『言語と記録の消失』だ」
ヴィンセントが足元の紙片を踏みしめながら、重い声で言った。
「世界が衰退するとき、最初に消えるのは色だ。……だが、滅びが深まると、次に世界から消えるのは『概念』……すなわち言葉や文字、そしてそれらに宿る『意味』なのだ。人々が読むことをやめ、語ることをやめた言葉は、このように紙の上から立ち消えていく」
ヴィンセントは手を伸ばし、崩れかけた棚から別の本を抜き取った。やはりそのページも、すべて真白な空白だった。
「文字が消えれば、歴史が消える。歴史が消えれば、人間が過去に何を愛し、何を苦しんだかという『生きた証』そのものが、世界から抹消されるのだ。……この図書館は、そうして死んだ知識の墓場だな」
ルカは拾い上げた白紙の本をギュッと抱きしめた。
胸の奥が、冷たい風に晒されたように寒くなった。自分が今握りしめている手帳も、いつかこうして文字が掠れ、ヴィンセントが書いてくれたあの温かい言葉も、自分の描いたスケッチも、すべて消え去ってしまうのだろうか。
「……先生。僕たちの手帳も、いつかこうなっちゃうんですか?」
「……私が生きている間は、絶対にさせん」
ヴィンセントはきっぱりと言い放った。その声には、アークメイジとしての、そして記録者としての絶対的な誇りが満ちていた。
「だが、急がねばならん。この大図書館の深部には、まだ消失を免れた『最後の言葉の結晶』……強力な星の欠片が眠っているはずだ。それが完全に無に還る前に回収するぞ」
「はいっ!」
ふたりは白紙のページが舞い散る廃墟の中へと、深く足を踏み入れていった。




