雲海を駆ける列車と、甘い香りの缶
カタコト、カタコト、カタコト。
車輪が奏でる鉄の鼓動はどこか低く、湿り気を帯びた重厚な音へと変わっていた。
夜行列車『星屑の軌道』は今、標高数千メートルにおよぶ峻険な山脈の尾根を伝うように、一筋の細い鉄橋の上をすべるように走っている。車窓の外を見下ろせば、底知れぬ深さの谷底を覆い尽くす純白の「雲海」が、まるで生き物のように蠢いていた。
世界から色が奪われ、音すらも静まり返っていく中で、この雲海だけは太古からの姿を変えず、ただ静かに列車を抱え込むように揺れている。
「……うわぁ、高い……」
ルカは窓ガラスに額をつけ、眼下に広がる白い海を見下ろして小さく息を呑んだ。
高所への恐怖よりも、どこまでも続く白い世界の雄大さに圧倒されていた。朝の澄んだ光が雲海に反射し、淡い真珠色の輝きとなって車内に差し込んでいる。
「ルカ。身を乗り出しすぎるな。窓に油分が付着する」
居間の奥で、ヴィンセントが厳格な声を響かせた。
彼はデスクに向かい、いつものように古い羊皮紙の束と格闘していたのだが、その脇には一見していつもの古文書とは毛色の異なる、小さな角型の金属缶が置かれていた。
缶の表面には、かつての名店のものと思われる、優美な蔓草模様と金の箔押しが残されている。
「あ、先生。その缶……さっき棚の奥から出してきたやつですよね。なんですかそれ?」
ルカが好奇心に目を輝かせて近づくと、ヴィンセントは咳払いをひとつし、素早く古文書の束で缶を押し隠そうとした。
「……何でもない。過去の旅の遺品だ。知る必要はない」
「えー、嘘だ。だって先生、手がすごく慎重でしたもん。……あっ! もしかして……お菓子ですか!?」
「なっ……! 妄言を吐くな、へっぴり腰!」
ヴィンセントは眉間に深いシワを刻み、威厳たっぷりに胸を張った。だが、その耳たぶがごくかすかに赤くなっているのを、ルカは見逃さなかった。
ルカはすささっとデスクの横へ回り込み、古文書の隙間から缶のラベルを覗き込んだ。そこには古い文字でこう印字されていた。
——『王都御用達・極上リンゴのブランデー漬けコンフィチュール(砂糖漬け)』
「やっぱりお菓子じゃないですか! しかも砂糖漬け!」
「……これは単なる砂糖漬けではない!」
ヴィンセントは立ち上がり、コートのケープをバサリとなびかせながら反論した。
「これはかつて王都の最高峰の職人が、絶滅した『黄金リンゴ』の果肉を熟成ブランデーと希少な和糖で三年間煮込み、保存性を極限まで高めた『食糧保存技術の結晶』だ! 糖分補給は脳の活性化において——」
「はいはい、要するに大好物の甘いものですね」
「……ぐっ」
言葉に詰まったヴィンセントは、悔しそうに口を真一文字に結んだ。
威厳に満ちた大魔導士であり、歴史の記録者であるヴィンセント・ヴァレンタイン。彼は恐ろしいほどの厳格さを誇る一方で、信じられないほどの大の甘党だった。普段はクールを装っているが、甘味のことになると途端に言い訳が苦しくなるのだ。
ルカはくすくすと笑った。
「いいじゃないですか。二人で食べましょうよ。ちょうど朝のお茶の時間ですし」
「……ふん。お前がそこまで懇願するなら、分かち合ってやらんでもない」
ヴィンセントはあからさまにホッとした表情を浮かべると、宝物を扱うかのような手つきで缶の金属蓋を静かに持ち上げた。
その瞬間——。
ふわり、と車内中に濃厚で甘やかな香りが広がった。
芳醇なブランデーの熟成香と、濃密な蜂蜜のような甘い香り、そして爽やかなリンゴの果実香が混ざり合い、鼻腔を心地よく刺激する。缶の中には、透き通った琥珀色のシロップに浸かった、宝石のように輝く黄金色のリンゴの果実がぎっしりと詰まっていた。
「……うわぁ、きれい……」
「当たり前だ。このコンフィチュールひとつで、かつては家が一軒立ったと言われるほどの逸品なのだからな」
ヴィンセントは満足そうに鼻を鳴らすと、磁器の小皿に慎重に果実を盛り分け、いつもの手際で温かい紅茶を淹れ始めた。
沸騰したお湯が注がれ、紅茶の芳香とコンフィチュールの甘い匂いが重なり合う。
ルカは小さくスプーンを取り、シロップを纏ったリンゴを口に運んだ。
「……っ! おいしい……!」
歯を立てた瞬間、しゃっきりとした果肉の歯ごたえとともに、濃密な甘みとブランデーの気品ある香りが口いっぱいに弾けた。すかさずヴィンセントの淹れた温かい紅茶を口に含むと、甘さが心地よく洗われ、無限に食べ続けられそうなほどの完璧な調和が生まれた。
「うわあ……幸せ……」
ルカがほっぺたを押さえて恍惚としていると、向かいのヴィンセントもまた、小皿の果実をスプーンですくい、ゆっくりと噛み締めていた。
いつもは厳しく寄せられている眉間のシワが綺麗に消え去り、その瞳はまるで甘味にうっとりとする子供のように、キラキラと輝いている。彼にとって、この一口は単なる栄養補給ではなく、かつて存在した「世界が豊かだった時代」の記憶を味わう、至高の瞬間なのだ。
「……美味だな。糖分の分子構造が完璧だ」
「素直に『甘くて美味しい』って言えばいいのに」
ふたりで顔を見合わせ、小さく笑い合う。
だが、そんな穏やかなお茶の時間を破るように、足元から「カタトコ……」と響いていた走行音が、急速に重く、鈍い音へと変わり始めた。




