表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かな復讐 奪われたすべてを、完璧に奪い返す  作者: 雫石しま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/27

第10話 傷はもう隠さない

 私は不動産会社部長の車で、まずLueurから徒歩10分のマンションへ向かった。


「ここ、いいですね」


 私は窓辺に立ち、深呼吸した。新しいフローリングの匂いがする。傷ついた絆の記憶が、ここでは薄れていく気がした。築20年リノベーション済みの戸建て風マンション。1階部分がアトリエスペースで、小さな中庭付き。庭はコンクリートではなく土で、芝生の匂いがした。室内は白基調で、梁が見える天井が高く、開放感がある。作業机を置けば、ルーペの光が優しく入る。中庭で風を感じながら、私はサファイアのリングを指で回した。


「ここに決めます」


 部長が微笑んだ。


「ご希望通り、プライベートで静かな場所ですね。購入手続きを進めましょうか」


 私は頷いた。鍵を受け取り、中庭に一歩踏み出した。土の感触が足裏に伝わる。あたたかい。私は大きく息を吸い、青空を仰いだ。





 ◇◇◇





 翌日、拓也が血相を変え、眉を釣り上げてマホガニーのテーブルを叩いた。ワインの瓶が激しく揺れ、深紅の液体がグラスの縁で波打つ。


「どうして勝手に株を売却した!」


 私はルーペを外し、ゆっくりと顔を上げた。徹夜の疲れが残る目で、彼をまっすぐ見据える。


「あの株は私名義のものだわ。売却しようがどうしようが、私の自由でしょう?」


 拓也の息が荒くなる。拳がテーブルに残った赤い跡を押さえ、声が低く震えた。


「お前……じいさんに何を吹き込んだんだ」

「あなたに自由はないの?って聞いただけよ?」

「……自由」

「そうよ」


 私は静かに立ち上がり、バッグから新しいマンションの権利書を取り出した。白い紙に黒いインクで私の名前が記され、赤い印鑑が押されている。


「これを見て」


 権利書を拓也の鼻先でちらつかせた。新しい住所、Lueurから徒歩圏内の2LDK。ワークスペース付き、南向きバルコニー。


「出て行くのか」


 拓也の声が掠れた。怒りより、どこか呆然とした響きがあった。


「あなたが出てゆけといったでしょう?」


 私は淡々と答えた。言葉に棘はない。ただ、事実だけ。


「今月末で退去する。マンションの権利書はもう、あなたのものじゃない。株も預貯金も、すべて処分した」


 拓也はテーブルに手をつき、肩を落とした。ワインの赤が、床に一滴零れ落ちる。私は権利書をバッグに戻し、ルーペを再び手に取った。サファイアが、静かに青く輝く。


「新しい家は、私の光が満ちる場所にするわ。傷が光になるような」


 拓也は言葉を失い、ただ私を見つめていた。マホガニーのテーブルに、ワインの染みが広がる。




 ◇◇◇




 引っ越し当日、私は朝6時に目覚め、マホガニーのテーブルに最後のワイングラスを置いた。赤い染みが残るテーブルを、静かに拭き取る。


 拓也の荷物はすでに運び出されていた。


 私のものは最小限──マホガニーの作業机、服、ジュエリーの工具、デザイン資料、そしてサファイアのリングケースだけ。離婚届は、まだ私のバッグの中に。サインする日が来るまで、手放さない。


 引越し業者が8時に到着。白いシャツにデニム姿の若い男性が、丁寧に声を掛けた。


「佐々川様、本日よろしくお願いします。大きな家具は?」

「ほとんどありません。段ボール20箱と作業机だけです」


 私はリビングを振り返った。空っぽになった空間が、5年間の記憶を淡く映している。冷めたフレンチトーストの匂いはもう消え、代わりに段ボールの紙の匂いが漂う。荷物をトラックに積み込み、最後にリングケースをバッグにしまった。新しいマンションの鍵を握りしめ、玄関のドアを閉めた。


 カチリと鍵がかかる音が、静かに響いた。


 タクシーで新居へ。Lueurから徒歩10分のマンションは、ガラス張りのエントランスが朝陽を反射して輝いていた。7階の部屋に入ると、南向きの窓から光が満ち、フローリングが優しく白く浮かぶ。


「ここが、私の新しい部屋」


 引っ越しは終わった。


 私は洗面所の鏡の前に立ち、ゆっくりと髪を梳かす。指先が止まる。かつて拓也に「綺麗だ」と言われたその髪は、今はただの自分の一部でしかない。


 鏡の中の自分を見つめ、静かに息を吐く。――あの頃の私は、傷つかないように、歪まないように、必死で丸く削られていた。でも今は違う。この傷は、もう隠さない。研磨されて、欠けても、光を返すようになった。


 「サファイアだって、最初はただの石だったんだから」


 私は小さく微笑む。それは笑みではなく、確信だった。鏡に映る瞳は、以前より深く、冷たく、そして確かに輝いている。この輝きは、もう誰かのためじゃない。私のために。


 私は新しい部屋の窓辺に立ち、青空を仰いだ。サファイアの青が、心の中で静かに広がっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ