第2話 決戦!瀬戸内海国立公園 Act1 世情5
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―わたし、信夫に死んだ関本、マリンドラゴンに乗っている伴賀とプロフェッサー綾川、あと、黒井、か。オリジナルファイブの面々が集まったのはもう20年前か。
大学見学に来てそのまま居ついた伴賀、当時院生だった綾川、学生結婚した関本、そして准教授になったばかりの若き民俗学者だった忍信夫、この者たちの共通点、それは瀬戸内海出身だったこと。
「とは言っても、わたしは子どもの頃は東京だったけどな」
この発言は信夫。
彼は千住住まいで、隅田川沿いのマンションに住んでいた。
小学校の高学年時に父親の実家が経営する造り酒屋をその父が継ぐため、引っ越すのだが、70年代初頭に物心をついた信夫はマンションからよく子どもの頃、隅田川を眺めていた。
すると案外船は行きかう、しかも停泊して随分いる船もいる。
それを親に云うと毎回とぼけられて終わった。
それを学友の数人に話すと「うそぉぉ!」とか「そういう話はしない方がいい」と云われた。
すると一人の男の子が「船のひとに興味あるの?」と尋ねてきたので、「うん」と答えると、「何で?」とその男のが聴くから「寝ている時に水入ってこないかな、とか、釣った魚でご飯食べるのかなと、そりゃ、謎が多いしさ」と答えるとその男の子は放課後、うちに来いと信夫を誘った。
まさにその男の子のうちが船上にあった。
正確には千住大橋のたもとに水上家屋を建て、船を二艘占有し、その三つの住居にはキッチンやトイレ、テレビジョンや本棚もあった。
炊飯器ではなく釜で炊いたご飯を出され、「これなんですか?」と信夫が尋ねると「どじょうの佃煮」と返ってきたので、ご飯の上に乗せ、食べたら、あらん限りの美味しさを表す表現を信夫はその家族にした。
その子どもながらの素朴の感動に触れたためか、信夫は男の子の両親に歓迎を受けた。
だから、そのポンポン船で男の子の父親は息子と信夫を乗せ、隅田川を移動し、江東区や中央区の河川敷を案内し、荒川にも入って行った。
川魚を取るだけでなく、母親は早起きして作ったたくさんの弁当を隅田川と荒川の中州で働く工員に売って生計を得ていた。
鰻、泥鰌、鯰、鮒、これは下町・江戸前の名物、信夫はこういった淡水魚の美味さに気づいた。
「でもね、信夫くん、川はもう汚れているよ」
70年代は公害の時代もあった。
この頃の瀬戸内海も赤潮の時代であった。
水の領域も者どもにとって70年代は受難の時代、そして中世頃から続いた水の民の歴史が途切れる時代。
別れの日、男の子は信夫が好物だった泥鰌の佃煮をたんとくれた。
信夫はお返しに「サブマリン707」のサンデーコミックスを渡した。
倉敷市内の小学校・中学校でその話を信夫がすると「エッ!?それ珍しい話!?」と云われた。
この時代、未だ瀬戸内海には水上生活するひとびとはいた。
夫婦でその住まいになる船で遠洋漁業に出ると義務教育を子どもが受けられなくなるというので、〈学寮〉という施設を自治体が用意していた。
中学に上がると実際友人に〈学寮〉の生徒がいると信夫はその施設を訪ねたものだ。
「しかもな、信夫、女を売りに来る船もあろうそうだぞ」
中学になるとセックスにまつわる会話も多くなるもの、それは後に信夫が調べると〈おちょろ船〉というものでおそらく〈お女郎〉がなまって名付けられたものであろう。
これに食い込んだのが日左連の二村たちだが、この頃は未だ関与していない。
市内でも有数の企業であった造り酒屋の子息、信夫は勉強も好きだし、そのための投資を親族は惜しまなかったので、彼は東大に進んだ。
そして民俗学や考古学、歴史学や文化人類学の方法論で海上の民の研究を始めた。
「え!?何言っているんだ、信夫、そんなヤツいなかったよ」
これは泥鰌の佃煮をくれた同級生の男の子とその家族の話題を同窓会でふった時のこと。
東大に入学し、白山に住んでいたので、そう遠くない千住の小学校の同窓会に出席したのだ。
―これが、差別、か。
嫌悪感とか排外主義とかではない。まったく記憶の底から消去する、悪気はないし、感情もない。
ただただ視界や記憶から抹消する、いともたやすく行われるえげつない行為。
会場からその足で、信夫は千住大橋のたもとに向かうと果たして、水上家屋も船も消えていた。
―あの男の子の名前すら思い出せない。
それまでは信夫、こういう〈まどろわぬ者たち〉の研究を子どもの頃からの興味本位の延長だったのだが、この頃、一生の仕事にしようと決心を、いつの間にかしていた。
―河のたもとの一家も学寮に子どもを預けて働いた親御さんもいい人だった。
そして実家に戻り、瀬戸内海に住む海上生活者に取材するフィールドワークを始める。
だが、既に90年代を目前に控えていたバブル期、多くはそんな生活を卒業していたし、なによりそんな研究に応える雰囲気はなく、元海上生活者はほぼ口をつぐんだ。
なにより実家の親たちは「そんな研究をするために旧帝大に上げたワケではない」と無言でなく、はっきりと否定してきた。
―だが、今や、自分が瀬戸大橋のたもとで海上生活者、自転車で30分の距離にご立派な実家があるのに、これは復讐、か。
と現在の信夫はたまに思うことがある。
過去の資料や海上生活者が使っていた船を研究対象にした。
「ところがさ、伴賀に関本、みんな、一人、取材を受けてくれる老人がいた」
瀬戸内海を故郷に持つオリジナルファイブで歓談していた時に信夫はそう話す。
「だが、もう余命いくばくもないお爺さん、なるべく短く話すようにととわたしは言われていた」
だから、信夫は聴いた、いちばんの疑問を。
「何故に海上や水上にあなた方は住むのか」と。
『簡単なことだ。海上に住んだ方が安全だからじゃよ、まぁ、最後まで聞けい。そう、波で絶えず揺れる、沈没の危険もある。ああ、それか、台風や荒波か、簡単じゃよ、例えば、大地震が来たのならば、直ぐに船を出して・そのまま逃げればいいのだ。地上の土地に家建てる連中にそれできないだろう。むしろ倒壊や火事の危険もある地上で生活する方が異常じゃよ」
これには長年〈水上の人々〉にシンパシーを感じてきた信夫も驚いた。
―そうか、海は無限だから、海上に住むことはどこにもいけるということか。
そうなのだ、東南アジアの人民の多くはいまだ海上で暮らし、水上都市を形成している。
古代ミケーネ文明に登場する〈海の民〉からいまだ独自の文化を守り抜く〈エスキモー〉まで、むしろ人類は海上・水上で暮らす方が当たり前ではないか?
それはここ近年、阪神淡路大震災や東日本大震災を経た後だから、よく理解できる。
津波発生までの約30~60分の間に住居の船で逃げればいいし、古代からひとはそうやってきたのだ。
「なぁ、伴賀に綾川、みんな、オレは気づいだんだ。アフリカを起源に持つ人類、それは五大陸全てに行き渡り、ポリネシアやミクロネシアにまで数万年かけて移動している。海洋技術だってどんなにがんばっても高校のボート部くらいしか作れない有史以前にだ。だが、それを為した、為したから人種や言語はこれほど別れた。何故か?そうだよ、海上や水上で恒常的に暮らすことこそ、数十万キロの移動も苦も無くできる毎日の鍛錬になっていたんだ。ひとは地上で土地を占有し、米や映画といった資本主義の温床を作り出した。だが、違う、そもそも陸でなく、海でこそ発展していくべきなんだ!」
あの死にかけの古老が信夫に言った最後の言葉。
『昔、あんたが、孫に分けてくれたあの泥鰌の佃煮、美味かった・懐かしかった。そう、あの千住大橋の家族はわしらの仲間じゃ。海で繋がっているんだよ。隅田川と瀬戸内海も。だから、知り合いだからってフシギではあるまい』




