其の七 無二三の帰郷
7話目です。よろしくお願いします。
一
先ず、甲斐国(山梨県)の「大小切」制度を説明しないといけない。
周知のように甲斐国は山がちなので、あまり稲作には適していない。
そして、江戸時代の租税とは米納を基本として行う。
藩に因って、又時代や天災や不作時でも変わるが、大まかに「万石万俵」である。
一石とは約150キログラム。
一俵とは三斗五升。
一升が新京枡の体積だと、約1.8リットル。この枡に入る米粒の数は64827粒で、大体の重さは1.5キログラム。(「虫や鮒」と語呂合わせで当時は覚えていた)
十升で一斗なので、一斗は約18リットル。
三斗五升を計算すると、約63リットル。
これが一俵なので万俵は約630000リットル。(入っている米は約525トン)
仮に一万石(約1500トン)の大名家が在ったとすれば、其の藩は約525トンの米を年間で納めさせる。
凡そ35パーセントの三千五百石程を取り立てるのだ。
さて、甲斐ではこの様な取り立ては江戸時代一貫として行われていない。
年貢米を金にて納めていた。
全体の三分の一(全体の九分の三)を、未だ米の取れない時期に、四石一斗四升を一両と相場して金で納める。(一両の相場は通常五石である)
これを「小切」と呼ぶ。
次に残りの分の三分の一(全体の九分の二)を幕府の公定米価である御張紙値段で換算して金で納める。
これを「大切」と呼ぶ。
そして、全体の残り(全体の九分の四)を米納する。
要するに甲斐の人々がお上に収める税は、他の藩より少なかったのだ。
甲斐の人々はこの「大小切」制度を、武田信玄が制定した由緒ある法だとして曲げることを許さず、幕府もこの甲斐独自の税制度を尊重せざるを得なかった。
処が、明治五年(1872年)八月にこの「大小切」制度の廃止が大蔵省から命じられる。
前年に廃藩置県が行われ、特例を認めず、全国的に一元化した税制度を明治政府は企図した。
八月二十三日。
山梨県の各地の九十を超える村々から、一万に迫ろうとする人々が集まり、山梨県庁を取り囲む。
翌二十四日。
山梨県令の土肥謙蔵(1827年~1900年)は「願の趣聞届候間書面差出す可き事」と、大書して掲示した。
要するに「願いは聞き届けるので書面を出しなさい」だ。
だが、この一揆は誰か指導者的な人物も無く、誰も役人に対応出来る人物も無く、「願いは聞き届ける」等と言われたので、各村々の人々は自然と引き揚げてしまった。
但し、一部が帰る際に打ち壊しを行ったので、後々中央政府から咎められない為に、この一部の狼藉者たちを県庁の役人たちは片っ端から斬りかかり捕らえた。
こうして一揆は鎮圧される。
二
甲府に到着した無二三は唖然とする。
この「大小切騒動」と呼ばれる一揆は、この様に発生して直ぐに終結していたからだ。
「俺は何故こうも運と云う物が無いのだろう。俺のすることは何故こうも外れてばかりなのだろう」
流石に無断で伊東から飛び出したので、今更伊豆大島に行く等とは言えない。
静岡の沼津にも戻る気もしない。
無二三は生家へと戻った。
「景祐(無二三の諱)や、私の願いはお前がこうして無事でいることだよ」
無二三の母親は息子の姿を見て安心する。
彼女は息子に昏々と説く。
出世やら手柄など何もいらない。
只、落ち着いて故郷で嫁を貰ってゆっくり過ごして欲しい、と。
無二三もはらはらと涙を流して、完全に自身の野心を捨て去り、母の元で慎ましく生活しよう、と決心した。
「まぁ、嫁の話は一旦置いとくがな」
こうして無二三は帰農する。
士族が帰農を願い出る時、無償で官有地が貰える。其れを無二三は利用した。
貰えたのは僅かな田畑だが、無二三はこうして農業生活を送る。
「そう云えば、静岡に居た時は魚が美味かったなぁ。母上や皆にも食べさせたいな」
農作業後に家で酒を呑んでいると、無二三が思い出すのは、沼津に居た時の魚の美味さ。
思い立ったら即行動の無二三は、沼津の知り合いの魚問屋に連絡を出し、生魚を送って貰い、自ら捌き、魚屋の亭主の様なことを始めた。
当然、海なし県の山梨では評判に為り、何より母親が大層海の魚の味に喜んだので無二三には嬉しい。
気前好く安値で売っていたので、運送料との釣り合いが取れず、赤字続きだったので程無く辞めてしまったが。
然し、この様に一時期商売をしていたので、無二三は山梨の商人たちとの交流を築く。
三
山梨の人々は無二三を武士。要するに十代の頃から、ずっと軍人だと思っていたらしい。
だが、山梨の商人たちが直に無二三と話してみると、沼津で学問を収め、僅かながら英語。洋式の算術。何より畜産に関する膨大な知識を持っているとあって大層驚く。
「今、県庁は勧業勧業と言ってるが、本格的に勧業するのなら、先ず山梨中の品々を持ち寄って多くの人々に見て貰うことなんだ。英語では『博覧会』と言ってな。これを甲府城で遣るんだよ」
「面白そうだな! 結城さん、是非とも遣りましょう!」
こうして明治八年(1875年)十一月。無二三主導による甲府城内で博覧会が開かれた。
評判は上々で、甲府市民だけで無く、山梨中から人々がこの博覧会を楽しみ、無二三の評判は高まり、産業を志したい者は、無二三の家の門を叩く。
そんな無二三の元を訪れる者に、元甲府勤番の旗本である前田長左衛門なる初老の人物が居た。
この前田と云う人物。すっかり無二三のことを気に入り、無二三が未だ妻帯していないと知ると、こう懇請する。
「結城先生、如何か私の末娘を貰ってくれませんか?」
最初は戸惑う無二三だったが、前田の執拗な説得と母親の兼ねてからの願いも在って承諾する。
前田長左衛門の末娘は「マツ」と云い、生まれは安政二年(1855年)十月。
無二三が弘化二年(1845年)四月生まれなので、十歳下だ。
翌明治九年(1876年)。
吉日を選び結城無二三と前田マツは華燭の典を挙げる。
新婚夫婦は甲府の桜町に家を持ち、牛を飼い始めた。
そう、家庭を持った無二三は単身伊豆大島で行う予定だった牧畜を、ここ故郷で妻と始めるのであった。
無二三の波乱の生涯は、こうして落ち着くものと、当人も思っていたであろうが、然し未だ続くのである。
其の七 無二三の帰郷 了
続きます。
64827が「虫や鮒」って、なんか114514が「いい世来いよ」みたいですね。




