其の五 甲陽鎮撫隊
5話目です。よろしくお願いします。
一
徳川慶喜は江戸に戻ると、幕府体制を以下の様に定めた。
会計総裁 大久保一翁
外国事務総裁 山口直毅(1830年~1895年)
陸軍総裁 勝海舟
海軍総裁 矢田堀鴻(1829年~1887年)
慶喜は上野の寛永寺にて謹慎し、上記の四名に事態収拾を任せる。
事態収拾とは榎本武揚や小栗忠順(1827年~1868年)らの主戦派を抑えて、新政府に対しての恭順の姿勢を示すことである。
この何とも厄介な問題を、あの「大政奉還」論者の大久保一翁が殆ど一人で行っていた。
海舟に関しては、碌に何も仕事をせず、辞任すら申し込む有様だったが、江戸に戻った新撰組に甲府の鎮撫を一任する。
慶応四年(1868年)の二月二十八日である。
新撰組の厄介払いか、或いは講和を有利に進める為の甲府の鎮撫か。
新政府軍が江戸に進軍するなら、甲州街道のある甲府を抑えることは、交渉の時間稼ぎに為る。
新撰組を中核とした、鎮撫隊が結成される。
指揮するのは隊長の大久保剛(近藤勇)と副隊長の内藤隼人(土方歳三)。
そして、事実上のナンバースリーとして、結城無二三が地理先道兼大砲指南役に任命され、更に軍監の役目まで貰った。
謂うまでも無く、甲斐は無二三のホームなので、この要職の抜擢だ。
なので、地の利は鎮撫隊が大いにある。
東海道と中仙道の二手から江戸に進撃する新政府軍。
この中仙道の軍から、甲府を抑える部隊を率いているのが、乾退助(1837年~1919年)なる土佐藩士。
彼は東山道総督府参謀として、土佐藩兵を中核とした部隊を率いていた。
二
江戸時代の甲斐国。
第八代将軍の徳川吉宗の(1684年~1751年)の「享保の改革」の一環で、甲府藩は廃止され幕府直轄地と為った。
幕末期。
幕府の権威が揺らぐと、甲斐の人々は武田信玄(1521年~1573年)の時代を懐かしみ、徳川の世を嫌ったが、西から進撃して来るのは、縁も無い土佐の連中。
乾退助は甲府城の入城を最優先に進撃する。
三月三日には乾の部隊が下諏訪に達した、との情報が無二三にもたらされる。
「……何とか急げば、甲府城には先に入れる」
無二三は敵軍の位置と自軍の位置の情報を比較して、自身が知る道筋を辿れば、先に甲府城に入城出来ると確信していた。
だが、遂に乾隊が五日に甲府城入城を果たした、と知ると鎮撫隊は勝沼の山で陣を敷き、携えて来た大砲二門を据える。
兵力は乾隊が約500名ほど。鎮撫隊が約200名ほど。
処が、隊長の近藤は陣を敷くと副隊長の土方を神奈川方面へ、ここ地元出身の無二三を甲斐の各地へ義兵を募る為に派遣してしまう。
そんな中、乾退助は甲府城から出撃し、鎮撫隊に先制攻撃を加える。
否、乾退助では無い。
彼は甲斐への進軍中に、上層部から次の様な指令を受けていた。
「君の姓を元に戻し、甲斐を抑えよ」
乾退助は姓を「板垣」と改める。「板垣退助」である。
甲斐の人々にとって「板垣」とは特別な意味を持つ姓だ。
武田信玄(晴信)の傅役で、晴信が父の信虎を追放し、家督を強引に奪ったクーデターの中心人物の一人。
板垣信方(1489年?~1548年)。
晴信体制と為ると、信方は重臣筆頭と為り、年齢差を考えれば、晴信は信方を実の父の様に思っていたであろう。
武田信玄の父とも云える存在。
其の板垣信方の子孫である板垣退助が甲斐の国に遣って来た。
戦闘は一方的なものに終わった。
板垣隊は西洋式の近代式戦闘に慣れている一方、鎮撫隊は肝心の大砲を扱う無二三が不在。
幕府から支給されたミニエー銃の扱い方も分からず、抜刀して突撃するが、一蹴されると、次々に脱落兵が出て、鎮撫隊は壊滅してしまった。
三月六日。甲州勝沼の戦いとして知られる。
「流石は板垣駿河守の御子孫殿! 見事な戦いぶりである!」
甲斐の人々は、土佐出身の板垣退助に完全に心服してしまった。
三
結城無二三は呆然とする。
鎮撫隊の壊滅をとある博徒の親分の元で聞く。
この親分の元を拠点として、主に猟銃を扱える者たちを無二三は集めていた。
「俺は如何すれば好いのだ……」
肩を落とし呟く無二三に親分が「頼みがある」と伝える。
この親分は甲州黒駒の親分で、懇意にしている駿府大宮の親分に手紙を届けてくれないか、と無二三に頼んだ。
何処へ行くべきか悩んでいた無二三は快諾し、一人駿府へと向かう。
岩間から富士五湖である本栖湖と精進湖の間を抜け、割下峠を越えて、駿府は大宮に辿り着く。
甲斐は板垣に慰撫されたと云うのに、この無二三の芸当は地元出身こそである。
この駿府滞在中に、無二三は直接の上司とも謂える、近藤勇が捕縛され(捕縛時は「大久保大和」と名乗っていた)、斬首刑に処されたことを知る。
新撰組の面々は各自の身の振り方をする。
離脱して別の幕府の隊に入る者。
元々の預かり元の会津藩と運命を共にする者。
最後まで新政府軍と抗戦していた榎本武揚の元に入る者。
そして、ある者は其の中での戦死。
ある者は降伏し帰参を許される、と様々で、こうして新撰組は消え去った。
この鎮撫隊は後に「甲陽鎮撫隊」として知られるが、初出が例に因って後の無二三の証言や息子禮一郎の表記からである。
信玄を中心とする後に纏められた武田氏の軍略書の「甲陽軍鑑」から拝借して勝手に名付けたのだろう。
四
頼る人物も無く、燻る無二三の駿府に、徳川十六代宗家の徳川亀之助(家達、1863年~1940年)と徳川慶喜。そして多くの幕府関係者たちが遣って来た。
慶応四年(1868年)七月のことである。
徳川家は駿府藩七十万石(1869年に静岡藩と改められる)を新政府から貰い受け、其処で慶喜を初め幕臣たちは謹慎する。
この芸当が出来たのは勝海舟と東征大総督府参謀の西郷隆盛(1828年~1877年)による三月十三日から十四日にかけて行われた、江戸の薩摩藩邸での会談による。
実は十五日が江戸城総攻撃の予定だったのだが、海舟は新政府軍の主力の大総督府軍が駿府まで達すると、山岡鉄舟(1836年~1888年)に単身で慶喜恭順の旨を認めた書を持たせ送った。
この鉄舟と西郷の会談で、江戸城の明け渡しが為されるのなら、当の慶喜の駿府謹慎も含めて、幕府側の要望はほぼ受け入れられていた。
更に言えば、大久保一翁が根回しの様に、地道に新政府との交渉を続けていたお陰でもある。
海舟と西郷の会談とは、謂わば最終的な確認であり、江戸城での全面戦争が避けられ、徳川本家の身の安全が護られたのは、一翁の粘り強い交渉が下地を造り、其処に山岡鉄舟を送ると云う奇策が嵌っただけである。
駿府に遣って来た幕臣たちの中には、新撰組関係者たちや見廻組関係者たちも居た。
彼らは無二三を見つけると説得を試みる。
「結城さん。恭順の意をすれば、何ら処罰は受けない。自首をするんだ」
「誰がするか! あの様な元は賊徒共に! ならば此処で死んだ方がましだ!」
無二三は切腹しようとする。
だが、周囲の執拗な説得を受けて、遂に無二三も観念して、沼津の徳川家陸軍局に出頭する。
確かに何ら罰せられなく、只謹慎を命じられただけである。
こうして結城無二三の幕末期に於ける戦いは終わった。
其の五 甲陽鎮撫隊 了
続きます。
2027年の大河ドラマの主人公をこっそり出しました。




