其の四 大政奉還、坂本龍馬暗殺、鳥羽・伏見の戦い
4話目です。よろしくお願いします。
一
慶応二年(1866年~67年)は日本の両トップが変わった年だ。
先ず、第二次長州征伐中に、大阪城で全軍の指揮の為に居た、第十四代将軍の徳川家茂が慶応二年七月(1866年)に薨去する。
そして、慶応二年十二月(1867年)に孝明天皇が崩御する。
家茂の跡を継いだのは徳川慶喜(1837年~1913年)。
満二十歳で世を去った家茂より、九歳年上。
孝明天皇の跡を継いで践祚したのは、十四歳の睦仁親王(1852年~1912年)。つまり明治天皇。
徳川慶喜は将軍在職中、一貫として畿内に居て、一度も江戸城で過ごしたことの無い将軍である。
第二次長州征伐の失敗により、幕府の権威の本格的な失墜が始まり、慶喜は慶応三年十月に土佐藩から建白された「大政奉還」を受諾する。
「朝廷には政治を行う実務能力が無い。では誰が日本の国の代表と為るのか?」
征夷大将軍とは、形式としては天皇から称号を貰っているのだから、天皇の勅命を無下に出来ない。「攘夷を何時するのか?」と命じられれば、あれやこれやと言い訳をする必要が出てくる。
だが、征夷大将軍から離れ、日本国大君。つまり自身が日本国元首に為れば、朝廷の意向など無視して、自由に外交も国政改革も出来る。
慶喜の「大政奉還」の狙いは其処に有った。
「元首を天皇にしよう、と言っているのは薩長だけに過ぎない。ならば大名会議を開けば、私が日本の元首に選ばれる筈だ」
確かに十四・五歳の少年を国家元首にするのは、この世界情勢下では危険な考えだ。
怜悧とも評される慶喜らしい選択である。
抑々「大政奉還」とは、幕府側から出た発想である。
大久保一翁(忠寛、1817年~1888年)。
彼が文久二年(1862年)に提起したもので、この時は幕府内で大反対に遭い、大久保は講武所奉行に左遷されてしまう。
当時、将軍後見職だった(一橋)慶喜でさえ、留保をつけていた。
奇しくも結城無二三が講武所に通っていた頃である。
二
坂本龍馬(1836年生まれ)。
彼は師に当たる勝海舟(1823年~1899年)から、文久三年(1863年)に上方の情勢を大久保一翁に知らせる様に頼まれた。
この頃の海舟と龍馬は「神戸海軍操練所」設立のために奔走してた時期である。
海舟にとって一翁とは、自身を取り立ててくれた恩人なので、信頼する弟子の龍馬を使いに遣ったのだ。
江戸の屋敷に籠っている一翁を訪れた龍馬は、「大政奉還」論を叩き込まれ、後に其れを彼は土佐中に巻き散らし、これが土佐藩の「大政奉還」建白へと繋がって行く。
近江屋事件。
つまり慶応三年(1867年)十一月十五日に起こった坂本龍馬暗殺事件だが、度々本作で引用している「旧幕新撰組の結城無二三:お前達のおぢい様」では、龍馬を斬ったのは、見廻組の今井信郎(1841年~1918年)である、とはっきりと書いてしまっている。
「新撰組」隊士であり、また「見廻組」隊士の結城無二三は、龍馬暗殺は新撰組では無い、という意味で次の様に要約して息子の禮一郎に語ったのだろう。
「先ず当時、新撰組にとって最重要事案だったのは、伊東甲子太郎(1835年~1867年)と彼の率いる御陵衛士の始末で、坂本龍馬の暗殺処では無かったのだ」
時系列を整理すると、龍馬が即死した近江屋事件が慶応三年十一月十五日。
新撰組が伊東を暗殺した、油小路事件は慶応三年十一月十八日。
若し、前者も新撰組の関与だったとしたら、当時の新撰組は同時並行で重要人物二人の暗殺計画を練っていたことに為る。
確かに其処までのリソースが有るとは思えず、新撰組が伊東一派の始末しか頭に無かったのは説得力がある。
何より、当の十五日の夜には、新撰組局長の近藤勇が主だった幹部たちを集めて、伊東一派粛清の謀議を開いたとされている。
この謀議に参加していた無二三は、この幹部たちの中に、事件発生直後から龍馬暗殺の実行犯とされていた原田佐之助(1840年~1868年)も居た、と述べている。
但し、龍馬暗殺当時から、新撰組の関与が強く疑われていた。
一つは、龍馬暗殺後に京に居た紀州藩士の三浦休太郎(安、1829年~1910年)の護衛を新撰組が任されていたからだ。
海援隊と陸援隊は、龍馬と中岡慎太郎(1838年~1867年)を暗殺したのは紀州藩だと信じ込んでいた。
これは「いろは丸沈没事件」と云う、詳細は省くが、要するに龍馬が多額の賠償金を紀州藩からせしめることに成功した事件だ。
そして、この紀州藩から土佐藩に支払われた賠償金は、龍馬の手に届く前に近江屋事件が起こる。
海援隊と陸援隊の関係者たちが、紀州藩が実行犯、又は紀州藩が新撰組に龍馬暗殺を依頼した、と怒りを燃やしても当然だろう。
こうして、海援隊と陸援隊が、天満屋で酒宴を開いていた三浦休太郎と新撰組を襲う「天満屋事件」が慶応三年十二月七日に発生する。
さて、当の今井信郎は、戊辰戦争後に近江屋事件は見廻組単独で行い、自身は見張り役をしていた、と証言したので、現在ではほぼ坂本龍馬暗殺は、京都見廻組の単独犯説が強い、と言われているのだが……。
三
その今井は無二三に対して、後年に次の様に述べている。
「結城さんは不思議の人だった。竹刀剣術はからっきしだったが、いざ実戦と為ると恐ろしく強かった」
無二三が今井が龍馬を斬った、と述べたのは、其の頃に今井が見廻組に入隊したばかりだったので、「試しに人を斬ってみろ、とでも言われたのだろう」、と今井に対して無責任なことを言っている。
無二三は京に居た時に関して、後年よく質問を受けていた。
つまり「どれだけ人を斬ったのか」と問われると、「ははは」と笑い、常に明快で剛直な生涯を送った彼だが、この件に関しては終生笑って曖昧に濁していた。
無二三が京を離れるのは、鳥羽・伏見の戦いでの幕府側の敗戦である。
この一連の戦いはほぼ幕府側の自滅であった。
大政奉還をし、将軍職を辞任した徳川慶喜は、十二月に「王政復古」の政変が起こり新政府が樹立されると、京を退去し大阪城に居た。
其処へ江戸から旗本たちが集結して来る。
彼らは既に臨戦状態で、江戸では薩摩藩邸を焼き討ちにした血気盛んな連中だ。
薩摩藩は一貫して倒幕の長州藩と違い、長らく公武合体を進める幕府側の重鎮だったが、宿敵だった長州と手を組み倒幕派に為っている。
下々の幕臣たちからすれば、薩摩は長州以上に憎き裏切り者である。
そんな彼らを慶喜は自ら直接指揮する訳で無く、勝手に京へと進軍させてしまう。
処が迎え撃つ薩摩軍を中心とする新政府軍は「錦の御旗」を掲げ、混乱した幕府軍は破れる。(慶応四年一月)
鳥羽・伏見の戦いとして知られる戦いだが、無二三も新撰組の一員として幕府軍で参戦していた。
一つの仮定の話として。
若し、慶喜自身が幕府軍を率い、薩摩が「錦の御旗」を掲げても、「あれは奴らが勝手にでっち上げた物に過ぎない!」、と鼓舞すれば、数に勝る幕府軍は勝利していたであろう。
もう一つの仮定の話として。
幕府軍の手綱を引き締め、全軍で大阪に籠っていたら、新政府軍は手の打ちようが無く瓦解した可能性も高い。
大阪湾の制海権は開陽丸を旗艦とする幕府海軍下にあり、新政府軍の海軍力では手も足も出ない。
大阪城と大阪湾を拠点として幕府軍が徹底抗戦したら、矢張り勝利は固い。
慶喜は先制攻撃も籠城戦も、どちらも執らなかった。
彼が行ったのは、大阪城を抜け出し、開陽丸で江戸へ逃亡することであった。
因みに開陽丸の艦長は榎本武揚(1836年~1908年)で、本来艦長の許可無く軍船を動かすことは出来ない。
慶喜が開陽丸に乗り込んだ時、榎本は不在で、副艦長を半ば脅す形で慶喜は開陽丸を出航させた。
流石に元将軍の命には逆らえない、と云った処か。
自身が艦長を務める開陽丸が既に出航してしまい、乗り逃げされ呆然とする榎本は、富士山丸で江戸へと戻る。
この富士山丸には、鳥羽・伏見の戦いで敗れた新撰組が榎本に直接交渉して、彼らも江戸に戻るのだが、其の中の一員として結城無二三も乗船していた。
其の四 大政奉還、坂本龍馬暗殺、鳥羽・伏見の戦い 了
続きます。
「いろは丸沈没事件」に関しては、ここなろうで詳しく書いたユーザー様たちの作品(私が確認た限り、現時点で2作。ひとつは短編、ひとつは長編)があります。
興味のある方は、「いろは丸」で検索すると、この2作品が出てくるので、どちらも一読することをお勧めします。




